雨は次第に強くなって行く。雲の流れが早い。
リタリットは街を見渡す。ここが一番いい風景だ、とアジン・レベカはあの頃言っていた。
いい奴だった。恋愛じゃなかったけど、好きだった。
だから、それを止められなかったことが、ずっと悔いになって、あの光景を記憶の鍵として焼き付けてしまった。大勢の声と地下鉄と、赤い服の。
欲しかったものは、手に入れたことが無かった。手に入れたと思ったものは、すりぬけていく。その繰り返し。
もしかしたら、父親は、自分のことを決して嫌ってはいなかったのかもしれない。
本人に聞いた訳ではない。本人に聞けば良かったのだ。
だがもう遅い。父親は、死んでいる。殺されたのだ。自分の知らない誰かに。
手の中には何もない。全てがその間をすり抜けて行った。
手を伸ばせば。
彼はふと空を仰いだ。大粒の雨が、顔を濡らす。
雲の流れが速い。にわか雨の様な気配だ。
いっそのこと、ずっとこんな風に降っていればいいのに、と考える。
と。
突然ラジオから、ノイズが飛び出した。
リタリットは振り向く。ラジオは水を滴らせながら、それでも音楽を流し続けていた。
その音楽が全く聞こえない程、ノイズは大きく激しく、スピーカーから飛び出す。
何だろう。
彼は思う。
―――思った時だった。
ごぉ………… と、低い音が空から響いてくる。
空気を震わす。
立ち上がる足元のコンクリートに響く。リタリットは空を降りあおぐ。
何か、が、雲間に見えた。
まさか、と彼は思った。
自分の目を疑ったことは、無い。だがしかし。
目を凝らす。
ちょっと待て。
リタリットは階段室の上から、飛び降りた。
飛び降りたショックが足に響く。水たまりが跳ねる。
ラジオのノイズを背に聞きながら、彼は階段室へと飛び込む。
濡れた靴の底がビニルタイルの床につるつる滑って、今にも転びそうだ。だが転んでいる暇は無い。
外の音は次第に大きくなってくる。
近づいてくる。震動が、校舎を伝って、自分自身の身体を震わせている。
まさか。
彼は思った。
あれは。あれは。あれは。
自分の目が間違ってなければ。
大気を引き裂く様な音と、大地を揺るがす音が、同時に鳴り響く。
何でこれはこんなにあの音を思わせるんだ。地下鉄の、あの。
階段を一段飛ばしで降りる。
滑りそうになって、慌てて手摺りにつかまる。
七階・六階・五階……
一階まで降りきる。
廊下を走る。
湿り気のせいで廊下までつるつると滑る。勢い余って滑る。思い切り滑る。
ズボンの膝がすれる。その下の皮膚がすれる。痛い。膝をぶつけたらしい。
だけどそんなことを言ってられない。
リタリットは入った時に開けた扉から飛び出す。
見上げる。
空には四角い箱の様な機体が、ひどく不安定な操縦で、次第に地上に近づいている。
あれは。
ばしゃ、と水が跳ねる。
リタリットは外へ飛び出した。
小型艇だ。あれは。あの冬の惑星で、食料だけを輸送する時に、使っていた、小型の惑星間輸送船。見覚えがあるはずだ。自分達も、それには乗ったのだ。あの時、すぺーすじゃっく、を試みた時。
そして、あの時、操縦していたのは、誰だ?
彼は空を仰ぎながら駆け出す。
この方向は。
自分の足が、大グラウンドに向かっていることに気付くのに、時間はかからなかった。
そうだ。奴なら、そうする。
リタリットは思う。
奴だったら、絶対に、自分一人で脱出して、機体をそこらの街に落とそうなんて思わない。
この学校の広さを彼はその昔、好きだった。人数の割に、広すぎるこの場所が、隠れる場所が多いこの場所が好きだった。
だが今、その広さがいまいましい。
どうしてなかなか自分の足はグラウンドまでたどり着けないのか。
雨のせいで足がとられる。進みにくい。
雨が目に入る。雨。雨。雨。
そう言えば、あの時も雨が降っていた。
あれは、ライから自分達が戻って来た時。
あの寒い惑星から急に変わった気温に、身体がついていけなくて、どうしようもなく身体の中が熱くて、そして、相棒を、あの時。
立ち止まる。
目の前に、箱が。
息を呑む。
グラウンドが悲鳴を上げた。
肩で息をつきながら、ようやくリタリットはグラウンドの入り口へとたどり着いた。
鼻先を大地に埋めた機体からは、黒い煙が何本か上がっている。
だがひどい雨のせいか、黒く所々が焦げた様な機体も、火が点くこともなく、そのまま、大地に突き刺さったままだった。
彼は立ち止まった。足が、それ以上進まなかった。
この音は、あの音を連想させる。
中から、赤い服の相棒が出てきたら。
得体の知れない恐怖が彼を頭から襲う。息を詰めて、思わず両の腕で自分の身体を抱きしめる。
お願いだ、出てきてくれ。
がちゃ、と中から音が聞こえた。
リタリットは手に込める力を強くする。鼻面を突っ込んだ機体は、バランスを崩して、斜めになっているから。
扉も――― 斜めに開くんだ。
そんなことを考えながら、腕が扉を。
相棒は、黒い服をいつも着ているんだ。
そして、不思議そうな顔で、こちらを見ている。
「……リタ……?」
BPはつぶやいた。
そして、扉を大きく開けると、そこからゆっくりと降り立った。
だらだらと、雨が金色の髪から落ちていく。
顔が濡れているのは、きっとそのせいだろう。
そう決して、泣いてるんじゃ、ない。
「BP!」
リタリットは勢いよく駈けだした。