目を覚ました時、彼は自分が何処に居るのか、すぐには判らなかった。
見覚えの無い天井、見覚えの無い壁、見覚えの無い窓。
彼はゆっくりと身体を起こした。だが何となく、その感覚がおかしい。自分が動かそうと思っている様には、上手く動かない。
いや、動くことは動くのだ。だが、自分が予想した通りの速度で動いていない様な気がする。速いにせよ、遅いにせよ、何か、違う。自分の思うのと、実際の動きとの間に少しのずれがある。
まだ眠りから覚めていないのだろうか、と思いつつ、彼は改めて周囲を見渡した。やはり見覚えの無い場所だ。
だが自分の居るベッドの周囲を眺めた時、彼はそこが病院らしい、とは気付いた。病院。何か自分はそんな所に入るべきことをしただろうか。彼は記憶をたどる。
何か重要なことを、自分は忘れている様な気がしている。眠りにつく前、自分は一体何処に居ただろう………… 確か―――
!
考えていたので、彼は扉が開く音にも気付かなかった。
「やあテルミン、ようやく気がついたね」
「……スノウ」
彼の良く知る、帝都の派遣員の姿がそこにはあった。ただ、その姿は彼が今までには見たことの無いものだった。カーキ色の、帝国正規軍の軍服をきっちりと着こなしている。そんな姿、彼は知らなかった。
「あんた…… 軍人だったの?」
「軍人でも、ある。いや、皇族と血族は、基本的に軍人なんだよ。普段はともかく、重要な式典や会談の時には、これが我々の正装というものだ」
「―――ふうん」
「何処か痛むところは無いか? 気持ち悪くは無いか?」
そう言いながらスノウはテルミンのベッドへと近づいてくる。
「……俺は、ケガをしたの?」
「ケガを。そう、ケガをしたんだよ」
「……別に痛くはないけど…… 何か、変。何か、感覚がずれてる感じがするんだ。いつもとは違う……」
「……ああ、それは仕方が無い。まださすがに目覚めたばかりで、慣れないからな。……本当に君は無茶をする……」
「え?」
「あの時、君を連れ出す時に、私はかなりの理性でもって、君を連れ出すために苦労したんだよ。君があの様な芝居をするから」
「……芝居……」
フラッシュバック。浮かび上がる光景。そうあれは。
テルミンは思わず口を押さえる。
「全く、あのダミーを知られずに死体にするために、自分自身まで使うとは…… 君というひとは全く」
そう言いながら、スノウはベッド脇に椅子を引き出して座り、手を伸ばすと、彼の頬に触れる。その手の感触が、やっぱり僅かに遅れて感じられる。一体何だというのだろう。
しかし感じたのはそれだけではない。テルミンは相手に言われて始めて、自分が何をしたのか思い出した。
あの時。
「……俺、生きてるんだ……」
テルミンはつぶやく。自分があれで生き残れるとは、思ってもみなかった。
用意した対戦車砲は、祝砲の名目で借り出したものを一つ横流ししたものだった。そしてその中に花火ではなく、本当の砲弾を詰めた。
スタジアムの図面を見て、開いていた部屋の存在を確かめ、祝賀祭の前日に、こっそりとリモートコントロールと共に仕掛けた。
一応これでもテルミンは軍人だったのだ。実戦経験は殆ど無いが、ある程度の訓練は、まずまずの成績で通過してきたのだ。真面目な彼はその知識を忘れることは無かった。
失敗は許されなかった。機会は一回だった。自分自身がヘラのダミーを連れて、その窓に真正面に来る瞬間を見極めなくてはならなかったのだ。
ダミーには喋らせる訳にはいかない。教えられたことしか、それも僅かなことしかできないダミーには。一言でも喋らせたりしたら、そうしたら、ダミーがダミーであること、ひいてはヘラが失踪したことまでが公になってしまう。
それだけは困る、と彼は思ったのだ。自分の身体を引き替えにしても。
それが自分がこの星域で行ってきたことの代償だと、彼はそう思ったのだ。
だからその時、リモートコントロールのスイッチを押すことに、ためらいは無かった。
……いや、全く無かった訳ではないが。
「……それでも、俺、生き延びたんだ……」
「当然だ」
スノウはくっ、と彼の顔を自身の方へと向けさせる。
「それが芝居だ、と気付いたのは、君が自分自身と一緒に爆死させたあの『総統閣下』がクローンだということに、気付いた時だ」
「気付いた……?」
「テルミン、私は怒っているのだよ? ……心配しなくてもいい。あれがダミーだということは、この先決して、知られることはないだろう。だが君は、もう少しましな方法を選べなかったのか?」
正面から見据えられる。寄せられた眉。テルミンは相手のその瞳の中に、確かに怒りを感じた。思わずいたたまれなくなって、彼は目を伏せた。
「……だって、仕方なかったんだ……」
「判ってる。君の遺体を、急速冷凍処置したのちに、私もすぐに調べさせた。……ケンネル科学技術庁長官が、失踪したらしいな。誰と一緒に?」
「……」
「ヘラ・ヒドゥンと一緒なのだね?」
テルミンは黙ってうなづいた。
「言って」
「……そう、確かに、俺はケンネルにヘラさんを頼んだんだ。……けど、それだけじゃない。……あの時、ヘラさんは……」
「いつのことだい?」
「官邸に、暗殺者が入り込んだんだ。……数名。だけど本命は一人だった。その一人が…… ヘラさんの、ずっと探していた相手だったんだ」
「ふむ。何となく判る。君はそれで、ヘラともども、その男も一緒に、逃がしたというのだな」
「仕方なかったんだ……」
ふう、とスノウはため息をつく。頬に当てられていた手の指が、そのまま髪を梳くように上がっていく。
「仕方ない、で済ませられては、私はたまったものではないよ、テルミン」
テルミンは目を開ける。
「私はそれほど、信用が無かったかい?」
「そうではなく……」
何て言えばいいのだろう、とテルミンは思う。上手く言葉が見つからない。それでも迷いながら、ゆっくりと彼は言葉を探し出した。
「……俺は、あの星系で、決してマトモなことをしてた訳じゃない…… ヘラさんの存在は、そんな俺の行動の、言い訳になってたんだ。彼のためにしてきたんだ、と…… でもそれは違ったから…… 違ったことのために、一体自分がどれだけの人を、陥れてきたのだろう、と思ったら」
「それで自分が責任を取れば済む、と思ったのかい?」
「……と、思う。でもそれだけじゃない。ダミーに対しても…… 確かにダミーだけど…… 俺のすることを隠すためだけに、死なせるためだけに、起こされたダミーのこととか、色々考えたら、……何か、もう、全部が全部、嫌になったんだ」
「……テルミン」
「も少し生きていたいな、とは思ったんだ。だって、ほら、こんな風に、あんたの手が暖かかったことも、思い出したりはしたから。……でも」
手を取るテルミンに、スノウは大きく首を横に振る。
「だとしたら、私は君に、謝らなくてはならない」
「何で? 何であんたが、俺に謝ることがあるの?」
確かに、最初に行動をそそのかしたのは、この男だった。スノウがあの時、ヘラのあの姿を自分に見せなかったら、自分の中の導火線に火は点かなかったかもしれない。
だがその時には、きっと違った形で、やっぱり何かが自分の中に火を点けたのかもしれないのだ。
「あんたは、俺が元々持っていた何かを呼び起こしただけだよ。あんたがそうしなくても、俺はきっとそうなったんだよ。そういう人間なんだよ」
「そうかもしれない。いや私は、君がそういう人間だから、選んだんだ。……最後の計画に」
「……計画……?」
彼は首を傾ける。相手はゆっくりとうなづく。
「正確には、最後の計画になった、というべきかな。これで私がレーゲンボーゲン星系でするべき仕事は終わった」
「……って」
「私がこの星系で行ってきたのは、あの惑星ライの、パンコンガン鉱石を研究した上で、全て我々帝都政府に委譲させる様な代表を出させることだった。我々の気配を、あれは感じ取る。あれに気付かせない様に、その全てを我々に譲渡するような、そんな事態を作り上げること。それが私の仕事だったのだ」
「……じゃあ、もしかして、あの時……」
あの時。この男が帰ってしまうと聞いて、訪ねて行ってしまった、あの時。
その時会っていたのは。
「だから、君もある程度予想していたのではないかい? あの星系の反政府組織を、最初に立ち上げさせたのは、我々なのだよ。それを実際に動かしていたのは、結局は彼らだったが、きっかけを作り出させたのは、私と、私の背後にある帝都政府なのだ」
「それって、結局俺達皆、帝都政府の手のひらの上、ってこと?」
「そういう訳じゃあないさ。思う様には、いかない。結局、ほらこんなに時間がかかってしまった。まあ仕方がない。それが私の仕事だった。どんなきっかけを作ろうと、そこにそれを望む因子が無い限り、計画というものは成功しないものさ。レーゲンボーゲンは、我々という仮想敵が無ければ、たやすく内戦が起こっているだろう。これからどうなるかは判らないが…… それに、おかげで、君に出会えた」
テルミンは顔を上げる。
「最高の収穫だ。しかしさすがに私も、君があんな無茶なことをするとは思わなかった」
「……さっき俺の…… 俺の、遺体、って言ったよね」
「ああ」
「……俺は、死んだの?」
「君の、身体はね」
「ではこの、今ここに居る俺は誰?」
「君は、君さ。テルミン」
髪を梳いていた手を、ゆっくりと再び下ろしていく。そしてその手は、首すじからゆっくりと胸元へと降りて行った。その乾いた指の触れる感覚は、やはり少し遅れ気味だった。
「……だがさすがに、全身の入れ替えには、蘇生するのに時間がかかった。メカニクルのボディとの適性もある。拒否反応を起こさない様に、覚醒には時間を掛ける必要があった」
テルミンは思わず自分の両手を広げて見る。
そう言われてみれば、何処となく、自分の元々のそれとは、違う様な気もしなくはない。だがさほどの外見の違和感は無い。彼は思う。ああそうだ、このひとは俺の身体を知っていたんだ。
「……一体、今はいつなの? ここは……」
「ここは、帝都へ向かう船の中だ。君があの場で死んだことになってから、もう二ヶ月は経っている。あれからすぐに君の身体をあの星系から連れ出して、他の星系で手術を受けさせた。私はあの星系にまだ用事があったから一度戻ったが……あれから、あの星系がどうなったか、聞きたいかい?」
テルミンは首を横に振った。自分が知らないうちに、ずいぶんと時間と事態は進んでいたのだ。
「暗殺された」宣伝相のことなど、すぐに人々は忘れるだろう。元々、あの星系の政府にはそんなポストは無かったのだから。家族は悲しんだかもしれない。不孝な息子をお許し下さい。
あの時、どちらにしても地獄行きだ、とつぶやくヘラに手を伸ばした時から、そこに戻る気は無かった。その結果がどうあろうが。そして。
「俺は、あの星系を捨てたんだ。かき回すだけ、かき回して」
そんな自分に、あの星系の未来を聞く資格は無い、と思う。そして、もう決して帰ることはないだろう。
仕方がない、とテルミンは思う。そして軽く目を伏せる。
ゾフィーはあの男とちゃんと会うことができただろうか。ケンネルはちゃんとヘラとあの男をライまで運んだだろうか。疑問は湧いては消え、湧いては消える。ひどく騒がしい。
だがそのざわめきも、いつかは消えるだろう。消えていくしかないのだ。
ふと、脇に掛けた男が、立つ気配がした。そして。
「テルミン」
相手は、自分の耳元で囁きかける。
「君が、生きてて、良かった」
ふわり、と抱きしめられる感覚が、遅れてやってくる。
だけど、遅れて来ようがどうだろうが、それは暖かい。
その温もりが思い出させる。一度はそれすら捨ててしまおうか、と思っていた。捨ててしまってもいい、と思っていた。
だけど、その手が、自分を引き戻してくれたなら。
その時には。
彼は腕を伸ばした。
そして、ずっと欲しかったものに、まっすぐ、手を伸ばした。