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44・訪問者


 * * *




 午後になり、激しい雨足はおさまったものの、窓の外は白い粉を蒔いたような霧雨が降り続いている。

 窓際の椅子に腰かけて、レティアは心ここにあらずと言ったふうに、包帯が巻かれた右手を茫然と見つめていた。


 傷を負った指先はカルロスが用意させた治癒薬ポーションで再生されたが、念のために今日一日は安静にして指を使わないようにと、カルロスに包帯を巻かれてしまったのだ。


 仕事部屋では、ぶつくさと小言を言いながらミアが縫い針を進めている。


「もうほんと、使い物にならないのもいい加減にしてほしいものだわ。ただでさえ役立たずなのに、雑用すら出来なくなるなんて!」


 ミアの一言一句が棘となり、レティアの鼓膜にちくちく刺さる。けれどミアへの申し訳なさを超えるほどの恐怖心が、心の中に燻り続けていた。


 眼裏に焼き付いてしまった、悪魔憑きのような女の恐ろしい形相が脈打つようにちらつく──今も目の前にいるように。


 ──……怖かった。


 本当に怖かったのだ。

 もしも包帯を外して針を持ったとしても、こんなふうに手が震えていては仕事にならないだろう。


「恋人だかなんだか知らないけど?! あんな麗しい騎士様に介抱されて戻ってくるなんていいご身分よね? そもそもこんな所に閉じ込められたのも、元はといえばあんたが原因じゃない……!」


 ミアには何度も謝った。

 怪我をしたのはレティアのせいではない。けれど思い付く限りの謝罪の言葉を尽くした。

 それでも許される素振りもなければ、労りの言葉ひとつさえミアの口から聞かせてはもらえない。


 ── 一刻も早く仕事を進めなければならない時に迷惑をかけている私が悪いのだから。


 そんなふうに自分を追い詰めれば、身体は震え、襲われた時の恐怖心に侵食されていく。


 ──何か私にできる事を探さなきゃ。


 せめてミアに温かい紅茶を淹れようと無理をした。案の定、ティーカップを落として、危うく割ってしまうところだった。

 そんな自分に嫌気が差して、成すすべもなくこうして窓際の萎れた花となっている。


 ふと、母親と弟の笑顔が浮かんだ。


 ──母さまとルカは今頃どうしているかしら……。


 辛いことがあると、母親がぎゅうっと抱きしめてくれた。

 ルカが下手な冗談を言って茶化してくれた。


 うちに帰りたい。

 これほどに家族の温もりを欲したのは、生まれて初めてかも知れなかった。


 優しい言葉と、胸の温もり。

 ふるえるレティアの肩を抱いて「もう大丈夫だ」と言ってくれたカルロスを想う。

 彼に救われなければ、今頃、自分はどうなっていただろう。


 感謝の気持ちとカルロスの胸の温かさ、安心感。

 人は危機を救ってくれた相手に好意以上の感情を抱くと言う。


 ──好意、以上……?


 今の自分の気持ちもなのだろうか。

 けれどこんな時でさえレティアの眼裏まなうらに浮かぶのは、今朝突然に現れたラエルの、どこか寂しげで憂いを帯びた顔なのだ。


 ──でもあの時泣きたかったのは、きっと私のほう。


 ラエルが王族の縁者だと知った。

 ワームテールの宿の彼のために用意した部屋で話して、名前で呼び合えた事が心の底から嬉しかった。

 気安く接してほしいと言われても、そんな不敬が許される筈もなく。

 ほんの僅かだが縮まったと思っていたラエルとの距離が、今は途方もなく遠いものになってしまったような気がする。


 ──ラエルもこの王城のどこかにいるのよね。ワームテールさんのお店でも、あれから一度もお見かけしなかった。なのに王城で再会するなんて。


 ラエルへの返済のために少しずつ貯めているお金も、まだ一銭も渡せていない。

 負傷したとはいえ仕事ができず、こうして椅子に腰掛けているだけ……なのに頭に浮かぶのはラエルの事ばかり。


 ──私ったら、どこまで役立たずの体たらくなの。


 我ながら情けなくなって、ふうっと深いため息を吐いて項垂れる。


「どうせ休むなら寝室にでも篭っててくれない? そこにじっと座っていられると目障りなのよ!」


「もっ、申し訳ありません……」


 ミアに怒鳴られ、立ち上がって仕方なく寝室に移動しようとした時だ。


 控えめなノックの音がする。

 続いてミアの「ちっ」という舌打ちの声。ほんの少しでも仕事を邪魔されたくないというミアの苛立ちが手に取るように伝わってくる。


「ミアさん、私が出ます!」


 当然だと言いたげなミアは顔を上げようともしない。

 慌てて扉に駆け寄ると、左手でノブを回して双扉の片側を開ける。とたん、ふわりと可憐な花の香が鼻腔をくすぐった。


「……レティア?」


 そこには顔を覆い尽くすほど大きな花束を抱えた少年が立っていて、花束の向こう側から覗くようにしてレティアを見上げている。


「あなたは」


 ラエルが着ていたものと似た色・形をした白っぽい礼服を一丁前に着こなした少年は、昨日出くわした「ノア」という名の男の子だ。


「レティアが怪我したって母上が教えてくれたから。はいっ……これ、お見舞い!」


 王城に滞在している針子の一人が何者かに襲われたのだ。

 犯人が捕まって大事には至らなかったものの、そこそこ物騒な事件として王城内に注意喚起が敷かれたのかも知れない。


 ノアは、男児が持つには大きすぎるその花束を重そうに「よいこらしょ」と差し出す。

 白、薄紫、桜色の可憐な花々がセンスよく纏まっていて、淡色の砂糖菓子のように愛らしい花束だ。


「わざわざ会いに来てくれたの?」

「うん!」


 ノアは得意げに大きくうなづいた。


「まぁ、有り難う……っ」


 にっこり微笑んで、宝物を授かるように両手で花束を受け取ったレティアは、屈んでノアの視線に目の高さを合わせる。


「ねぇ、レティア嬉しい? また僕に会えて、嬉しい?!」


 見た目の幼さがレティアの弟と同じくらいのノアは、おそらく六歳か七歳。

 ノアとは違い、王城に居住する者らしく──おそらくラエルと同じく王族の縁者だろう──凛とした佇まいをしているが、まだ幼ない子どもだ。

 「嬉しい」という返答をせがむように、宝石のようなエメラルドの瞳をキラキラと輝かせている。


「ええ、もちろんよ。あなたにまた会えてとっても嬉しいわ……! それに素敵な花束も」


 花束の花は薔薇ではない、けれど──。

 一瞬だが、レティアを襲ったあの女の洞穴のような二つのを見た気がした。胸元で溶けた薔薇の花の悍ましい映像が甦り、おぞけが過ぎる。


「レティア、どうした? 怪我が痛む?」


 ノアが心配そうにレティアの右手の包帯を覗き込んでいる。


「……ううん、何でもないわ」


 ──あの女はカルロス様が捕らえて下さった。だからもう平気。ノアに花束を渡したのは全く別の人物だし、あの女とはもう二度と会わない……!


「でも花束は、僕からじゃないどね」

「えっ?」


 レティアの驚いた顔を見て、ノアは「しまった!」と言いたげな顔をする。


「あっ」

「どうしたの?」

「言っちゃった」


「……って、何を?」

「僕からのにしておけって、言われたんだ」


 ノアは、えへへ、と困ったように微笑わらって頭をかく。


「僕が持って来たって事にして、レティアに渡すようにって」

「えっと……。誰に言われたの?」


 レティアが首を傾げると、ノアは困ったように目をそらせて明後日の方を向く。


「それは、その……内緒にしておけって」


 花束の贈り主。

 この王城でレティアを知る人というと、限られた数名に限定される。

 まずはアーナス……けれどその可能性は極めて低そうだ。


 ──あとはノアのお母様とメイド長様、残るひとりは……ラエル。


「もしも王城でまたお会いする機会があったら、ちゃんとお礼が言いたいの。だから教えてもらえないかな?」


「ええっ?! でも」

「こんな立派なお花をいただいたのに、お礼を言わないわけにはいかないわ」


 ノアは綺麗な形をした顎に拳を添えて、考えるような素ぶりを見せていたが。


「……わかった。人から物をもらったら有り難うを言いなさいって、母上も言ってたし」


 案外すんなりと自白してくれそうだ。

 ノアに持たせたのだから、ノアの母親かもしれない……なんて考えていると。


「あのね、えっと。そこの廊下で会ったんだ……王太子殿下」


 想像していなかった人物がいきなり登場してきて驚いてしまう。


「王太子、殿下……」

「うん。僕がレティアの部屋を探していたら、花を持った殿下がたの」


「お、王太子殿下が、うろついて……?」


 いったいどういう事だろう。


「うんそう。それで僕がレティアの部屋を知らないかって尋ねたら、ここだよって教えてくれて、花を渡されたんだ」


「……そう、なの」


 ルカがレティアの部屋を探していると、近くに王太子殿下がいて、ノアに花束を託した──と。


「どうして王太子殿下が、私にお花を?」

「知らないけど、お見舞いに行くならこれを渡しなさいって。なんか、うろうろしながら困ってたみたいだった」


「はぁ……」


 事情がいまいち飲み込めないが、この可愛らしい花束は王太子殿下から賜ったもののようだ。


 ──ノアがお見舞いだと言ったから、王太子殿下は誰かに渡すはずだったこの花束を、ノアに?


「王太子殿下は、まだその辺りにいらっしゃるのかな。お花のお礼をお伝えしたいのだけど」

「わからない……いるかな」

「それは、すぐにお礼を言った方がいいわね……! 良かったら一緒に探してくれないかな」


 ノアが二つ返事で「いいよ!」と綺麗な笑顔を返してくれたので、ほっと胸を撫でる。


 政治・軍事ともに王国の覇権を掌握し、若くして相当な実力者だと名高い王太子殿下と対面するかも知れない。

 とはいえ平民のレティアにとっては雲の上の人物だ。

 お礼を述べるだけでも、一人きりでは心許ない。ノアが一緒にいてくれるのは有り難かった。


「ミアさん、ちょっと出てきます! すぐに戻りますから」


 ミアはちらと不機嫌な視線を送っただけで、特に何も言わなかった。

 部屋を出ると、大きな花束を抱えたまま、ノアの後ろにくっついて歩く。


「そこの角を曲がったとこだよ」


 どこか誇らしげに見えるノアの人差し指は、レティアとミアの部屋から目と鼻の先にある曲がり角を示していた。


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