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52・偽りの名


「ち、違うのです、王妃様ッ……! この女が、汚い手を使って、わたくしのドレスを……」


「まぁぁぁ!」


 アーナスの言い分を聞いているのかいないのか。

 その美しい壮年の女性──ヒルデガルド王妃は、トルソーに着せつけられたドレスに目をやる。彼女もまた、蒼く澄んだ宝石のようなをしていた。


「なんて素晴らしい仕上がりかしら。流石は王都一と名高い仕立屋の仕事ね。わたくしも何着か仕立てた事があるけれど、またお願いしたくなっちゃった」


 にっこり微笑むと、王妃は倒れているレティアに手を差し伸べる。細くて長い王妃の指先は、藤色のレースの手袋で覆われていた。


「…………っ」


 その手を取って良いものか。何せ、王妃殿下である。

 レティアが戸惑っていると、アーナスが横槍を入れてきた。


「王妃様、いけません! そのような下賎な者の手に触れては、王妃様の手が汚れてしまいます!」


 王妃はすっと目を眇め、アーナスを横目で見遣る。


「下賎な者、とは。どの者の事を言っているのかしら?」

「ですから、その、この女です……!」


 アーナスがレティアをこれみよがしに指差した。

 それをいかにも不快だというふうに一瞥すると、ヒルデガルド王妃は呆れたようなため息を吐く。


「わたくしには。足を上げて人を蹴飛ばしているあなたの方が、余程はしたなく見えましたよ」


 ぐ、っと言葉に詰まる、アーナス。


「それに、この者は下賤などではありません。優秀な仕立屋の針子であり、にとって、とても大切な方。今すぐサロンにお誘いして、一緒にお茶を飲みたいくらい……。さぁ、遠慮なくわたくしの手を取りなさい、レティア」


「……!」


 驚いたのはアーナスばかりではない。

 いきなり名前を呼ばれた当人のレティアも、若草色の瞳を丸く見開いている。

 王妃はにこにこと屈託ない笑顔を向けており、相変わらず手袋の手を伸ばしている。お断りしてはかえって失礼に当たるかも知れないと、レティアは躊躇いながらもその手を取った。


「アーナス」


 レティアを立たせた王妃が、次はアーナスに向き直る。レティアに向けていたのとは対照的に、冷ややかな視線と言葉を投げつけた。


「近頃、メイドや侍女たちの間で噂になっているのを、あなたは知っていますか。王太子の婚約者が事あるごとに仕立屋を呼びつけて、高額なドレスを何着も作らせている。それもすぐに飽きて、友人たちに次々と配っている……と」


「ぇ……?」


 途端、アーナスはしどろもどろ。


「わっ、わたくしは、決してそのような……」


「言い訳は聞きたくありません。あなたが湯水のように使っているのはわが国の国民の血税です。王太子の正妃ならまだしも、あなたのようなが使うなど烏滸がましいにも程があります。それに。正妃教育も言い訳をつけてサボりがちだと言うではありませんか。アーナス。あなたを王城に住まわせているのはドレスを買わせるためではありません。正妃教育を受けさせるためです。色々と反省なさい」


 ピシャリと言いつけられて、アーナスは叱られた子供のようにしゅんとなっている。


「さぁレティア。わたくしと一緒に参りましょう!」


 パッと笑顔になる王妃の表情の早替わりに戸惑ってしまう。

 それにしても……


 ──参りましょうって、どこへ……?


 紆余曲折あったものの、アーナスにドレスを納品することが出来た。

 この展開の最中さなかでは、流石のアーナスだってこれ以上レティアを引き留めることは出来ないだろう。


 ギリギリと歯噛みするアーナスを残して、導かれるまま王妃の後に続いて部屋を出る。


 ──この方が、ヒルデガルド王妃様……!


 どうにか無事に部屋を出て安心すると、驚きが再熱してくる。

 レティアにはこの女性の後ろ姿に確かな見覚えがあった。


 ──あの時の……。


 そう、まさかの、あの時の。


 部屋を出た途端、「レティア!」可愛らしい声に呼ばれて振り返る。

 王妃の微笑みが深くなった。


「ノア……っ! ずっとそこに居たの?」


 部屋の壁に寄りかかっていたらしく、ノアはすぐさま駆け寄ってくる。


「ねっ? 何があっても僕がレティアを守るって、本当だったでしょ……!」

「ええ。あなたがに私の事を伝えてくれたのね」


 全てが、これで納得がいく。

 レティアが王城でノアと出会った日。

 ノアの手紙の事で涙を流していた、あの美しい女性──彼女こそがノアの母親であり、今、レティアの目の前で微笑んでいるヒルデガルド王妃だったのだ。


「レティア、母上が」


 ノアが言うので、背後の王妃に視線を向けると。

 手招きの代わりに扇子をちょいちょいっと動かしている。

 ノアと視線の高さを合わせていたレティアだが、慌てて体制を立て直した。


「あの……。お礼が遅くなってしまいましたが、ヒルデガルド王妃殿下。この度は本当に有難う……」


 ございました、と言い終えないうちに、王妃が「おほほ!」と笑い出す。


「もうっ、そんな堅っ苦しい挨拶はよして頂戴。ノアが再三、レティア、レティアって煩いものだから! 一度あなたをお茶の席に招待しようと思っていたところよ〜。わたくしの可愛いノアが、いつもお世話になっています」


 王妃が頭を下げるので、レティアはとんでもないと恐縮してしまう。

 両手を胸の前でパタパタさせながら、


「お、王妃様?! 頭を上げてください……。お世話になったのは、私の方ですから……っ」

「いいえ。そう……ノアの手紙の事では。わたくしも、ノアも、あなたにとても救われたのよ。『嬉しくて流す涙もある』と、あなたがノアに伝えてくれなければ。わたくしとノアの関係性が崩れてしまっていたかも知れないわ」


「そ、そんな……っ。私は当たり前の事をお伝えしただけで……」

「その当たり前の事が、そうじゃない。普通に暮らしていても伝えられないもどかしさが、わたくしたちの間にはあるの」


 意味深な事を言いながら、王妃は遠い目をしていた。

 レティアのような平民には理解が及ばないけれど、王族の間柄では、たとえ親子関係であっても簡単ではない諸事情がきっとあるのだろう。


「ねぇ〜母上ばっかりレティアと話して、ずるいよ〜っ。レティアは僕の友達だよ〜?」


 ヒルデガルド王妃の袖を引っ張りながら、ノアが身体をくねらせている。

 王妃は「この子は仕方がないわね」と小さく嘆息。


「ごめんなさいね、レティア。ノアは遅くに出来た子だから、すっかり甘やかしてしまって。王太子や姉君たちとは違って、乳母もつけなかったのよ? いつもわたくしの側に置いているせいで、余計な知識まで身についてしまっていて……」


 余計な知識。

 そういえばと思い出す。ノアは母親が侍女と話しているのをこっそり耳に入れていて、アーナスの裏事情を含めた子供が知るべきではないようなまで良く知っている。


「……」

 レティアは苦笑いだった。

 けれど、王妃は相好を崩したままだ。


「あらやだノアったら。レティアちゃんはもうお母様のお友達でもあるのよ? ノアのお友達は、わたくしのお友達!」


 いつの間にか、レティアの名前の下に「ちゃん」が付けられている……。 


「レティアちゃんも遠慮しないで、これからはヒルちゃんって呼んでね♡」


 王妃は両手を口元に当てて身体をくねらせている。


 ──アーナス様を一喝された、あの凛とした王妃様はどこへ〜〜っ


「えぇ! 母上だけずるい! 僕だってレティアにあだ名で呼ばれたいよー!」

「あら、そーお? あなたのお名前はノアだから……ノーちゃんはどう?」


「えー……ノーちゃん……」


 ノアは、微妙そうな顔をしている。

 それでも。

 この親子のやりとりが微笑ましくて、レティアの頬が自然と弛んでしまう。


 ──ヒルちゃんもノーちゃんも……どちらも呼べません!


 そうだ、と、今更だけれどとても大事な事実に気がついた。

 王妃様のご子息なのだから、ノアは……


 ──王子様?! えぇぇえ……っ?!


 どうりで、身なりが立派だったわけだ。

 知らなかったとは言え、レティアはノアに敬語を使ったこともなければ、あろうことか敬称も付けずに呼び捨てにさえしている。


 ──な、なんでもっと早く、ノアの事を本人に詳しく聞かなかったんだろう……っ


 今更後悔しても、後の祭り。


「ねぇ、母上ぇ。レティアを僕の婚約者にしちゃ、だめ?」

「ん……?」


 ノアと王妃がふたり揃って顔を向けてきた。レティアに何かを確認するように。

 レティアは額に冷や汗を滲ませながら、フルフルと頭を振る。


「そうねぇ! レティアちゃんは可愛いし、良いお嬢さんだし? 良い考えだと思う!」

「ほんと? 父上にも頼んでくれる?」

「もちろんよ。さっそく聞いてみましょう」


 ──こ、このふたり、本気なの?!


 レティアそっちのけで、勝手に話が進んでいる。

 もはや王妃も本気なのか、ノアに話を合わせているだけなのか良くわからない。


 それに……。


 ──ノアのお父様、つまりは国王陛下。


 レティアの脳裏に、ワインレッドの隊服を着た騎士たちが過った。

 男装をやめてから彼らの姿を見ることは無くなったが、レティアは国王陛下直属の近衛騎士である《赤い隊服》の彼らに、理由もわからず追われる身だったのだ。


「…………!」


 思い出せば、恐ろしさで背中に冷たい汗が、つ……と伝った。


「レティアちゃん。あなたの正式な名前を教えて頂戴。あなたにも家族名があるでしょう?」


 相変わらずにこやかな微笑みを浮かべる王妃にすら、警戒心を抱いてしまう。

 言わずもがな、彼女はかの国王陛下の妃だ。


「はい……。改めて、自己紹介を……。ヒルデガルド王妃殿下にご挨拶を申し上げます」


 膝を折り、幼い頃に学んだ淑女の礼を取る。


「私の名は……レティア……ヴァー……」


 レティアの危機管理能力が警鐘を鳴らしている。

 下手に名を明かして、国王陛下の耳にでも入ったら──陛下の近衛騎士に捕えられてしまうかも知れない。


「……レティア・ヴァートナーと申します」


 咄嗟に、偽りの名を告げていた。


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