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52・決戦の日


 * * *



 眉間にきつく皺を寄せ、唇を引き結んだアーナスが、1人掛けのカウチに座ったまま正面に立つレティアを睨み付けている。


 凛と顔を上げて佇むレティアのすぐ左脇には、目にも鮮やかな桃色のドレスがトルソーに着せつけられていて、その圧巻の美しさを周囲に見せつけていた。


 ──シーラさん、皆さん。本当に有難うございます。皆さんが夜も寝ずに手を貸してくださったお陰で、私はこうして、ここに立つ事ができました。


 作業部屋には今頃、ヘトヘトになった針子たちが床に伸びているはずだ。


 シーラの差し入れのサンドイッチを食べて仮眠を取ったあと、レティアの痛む指先は手当をされ、軽く包帯も巻いてもらった。お陰で指先が復活。

 朝食も、昼食も、夕食も。人数分の豪華な定食が、テーブルセットごと作業部屋に運ばれてきた。夜間は、人数分の上質な毛布まで。

 シーラ曰く、これらは全て、ヒルデガルド王妃のはからいなのだそう。


 ──理由はまだ分からないけれど……こんな私に手を差し伸べてくださった王妃様にも、お礼を言わなければ。


 ドレスは驚くほど早く、また、アーナスに献上した時よりも豪奢に美しく仕上がっている。全ては仕立屋アンブレイスのソワイエールたちの高度な縫製技術と、丁寧ながら早い手仕事の賜物だ。


「………」


 レティアの瞳は凛と輝き、自信に溢れていた。

 ドレスは素晴らしい出来栄えだ。

 これなら、流石のアーナスだって文句の付けようが無いだろう。


「くっ」


 爪を噛みながらレティアとドレスを交互に見ていたアーナスが、あからさまな敵意を含ませた視線を投げてくる。

 それでも、レティアはもう怯まない。


「アーナス様。お約束通り、二日以内に修繕を終えました。どうぞ、ドレスをお納めくださいませ」


 深々とお辞儀をするレティア。アーナスは苦虫を噛み潰したような顔をしている。

 たった二日余りの短時間で、新米の針子のレティアが全てを仕上げたとは思えない。何か裏がある──差し詰めそんな事を考えているのだろう。


「ドレスに問題が無ければ、失礼させて頂いてもよろしいでしょうか」


 レティアは堂々と問う。

 もうこれ以上、アーナスに嫌がらせの思考を巡らせる時間を与えたくなかった。


「…………」


 アーナスが押し黙っているので、「では、失礼致します」と一礼をして、レティアが踵を返そうとした時だ。


「待ちなさい。まだ退室を許していないわよ?」


 冷徹な声が部屋に響く。

 レティアの肩が跳ねた。この後に及んで、アーナスはまだ何か言い掛かりをつけようとしているのだろうか。


「お前……そう、お前よ、卑しい鼠。これは一体、どんな汚い手を使ったの? お前のように無能な役立たず者が、たった二日でこんなものを仕上げられる筈が無いでしょうに」


「お言葉ですが、アーナス様」


 レティアだって、ここで負けてはいられない。


「アーナス様は、その無能な私が仕上げられる筈もないとお分かりになっていながら、このような仕事を言いつけられたのでしょうか?」

「いっ、卑しく汚い鼠の分際で、わたくしに口答えをするのか……!」

「アーナス様は、ご自分の大切なドレスの修繕を、卑しく汚い鼠に任されたのですよね」

「はぁ?」

「卑しい鼠がどんな卑しい手を使おうと、卑しい鼠の勝手でございます。目を向けるべきは卑しい鼠などではなく、アーナス様の大切なドレスがいかにきちんと仕上がっているか、ではないのでしょうか?」


 レティアはアーナスに、目を向けるべきはレティアではなくドレスだと、はっきりと諭した。きちんと仕事を終えさえすれば、鼠だろうが何だろうが、解放されて然るべきだ。


「…………ッ!」


 言い返せない苛立ちと怒りとを募らせたアーナスが、カウチから立ち上がる。そのまま肩を怒らせ、スタスタとドレスの前にやってくると、ついに本心を露わにする。


「こんなもの! 初めからどうだっていいのよ……!」


 悔しさの勢いで、ドレスの裾を掴み上げる。数日前にそうしたように、仕上がったばかりのリボンの薔薇に手を掛けた。


「……アーナス様?!」


 アーナスの突然の暴挙に、レティアとて怯んだ。

 この薔薇一つ一つに仲間たちの想いと愛情が詰まっているのだ。それを、いとも簡単に壊してしまおうとするアーナスが……今は心の底から許せないとさえ思う。


「おやめください、もう、それだけは……!」


 レティアが身を呈してアーナスを止めにかかる。けれどアーナスの興奮は収まらなない。しばし掴み合ったが、不意にパチンと音がして……レティアが頬を抑え、そのまま床に倒れ込んだ。


「ぶ、無礼者……ッ! お前なんか、今すぐ牢屋にぶち込んでやる……!!」


 今度はアーナスの靴の踵がレティアに襲いかかる。

 忌まわしい物を見るような目をしたアーナスが、これでもかと何度も踏みつけた。


「……痛、いっ」


 頭を守りながら身体を縮めるレティアが小さく悲鳴を上げたとき。

 ノックの音が部屋中に響いた。

 一連の騒動を恐々と見ていた侍女の一人が、慌てて駆け寄って、部屋の双扉を開ける。そして扉の向こう側に立つ人物の姿を認めると、ひっ、と声を上げ、身を低くした。


「あらあら、まぁまぁ。アーナス……これは一体、どういう状況かしら?」


 その女性の流麗で品の良い声色が、しんと静まり返った部屋に響く。

 後ろに二人の侍女を連れた女性はゆったりと優雅な仕草で部屋の中に進むと、あんぐり口を開けているアーナスの目の前に立った。


「ひ、ヒルデガルド王妃様……」


 アーナスはその名前を、とても小さく、頼りなく呟く。

 同時に、今まさにレティアを蹴ろうと準備万端な《片足》を、すごすごと床に下ろした。





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