* * *
気付けば、夜明けを迎えていた。
チチチ……
愛らしい鳥の囀りに気がついて、目線を窓の外に向ける。
バルコニーは早朝の白い陽光で満ち溢れていた。
「……もう、朝なの?」
縫製を続ける手元にあまりに集中していたため、時間の感覚がすっかり麻痺してしまっている。
昨夜、ラエルと別れて作業部屋に戻ってから一睡もしていない。
薄暗い中での細かい手作業を続けていたことで目は霞み、針を持つ指先は赤く腫れ上がって、ひと針通すごとにジンジン痛んだ。
──たった一晩、徹夜をしただけなのに。頼りの指先がもう限界だわ……。
少しだけ休もうかな。
力無く立ち上がると、部屋に備え付けのパントリーに向かう。ピッチャーに入った水をグラスに注ごうとしたけれど、コップを持った手指が震えてしまってどうにもならない。
水は諦めて、カウチに戻った。
床に広げた薔薇の中から、切り裂かれていないものを手に取る。ミアが印をつけてくれている場所に縫い付けていくのだが、ダメージのないリボンの薔薇はあと十個ほど。残りは無惨な形状に姿を変えてしまった薔薇たちだ。
──今は自分にできることを精一杯やる。その事だけを考えるの……。
置いた針を手に取って、針穴に糸を通そうとした。
震える指先がなかなか言うことを聞いてくれない。何度も失敗しながら、やっとの事で針穴から糸の頭を覗かせる事ができた。
「……っ」
一度手放した針を扱うのが、こんなに大変だったとは知らなかった。
ひと針を生地に通すたびに、指先に激痛が走る。
──作業が進まない……!
けれど諦めたくはない。自分の弱さに負けたくない。
その想いだけで、どうにか精神を保っていた。
くう、と申し訳なさそうに腹が鳴る。そう言えば昨日の夕食を食べていないと気が付いた。
柱時計が示しているのは六時七分。朝食は八時なので、まだ二時間ほどある。
「……朝ごはんは、ちゃんと食べなきゃ」
明日の今頃は、タイムリミットを数時間後に控えている。
その時、自分はどんな顔をして、どんな想いでいるのだろうと、指先の痛みに耐えながら朦朧と考えていた。
*
はっ、と目を覚ます。
痛む指先を休めている僅かな間に意識が飛んでいた。
──いけない、私ったら、眠って……?
頭を振って、居住まいを正す。
作業を続けようとするけれど、今度は恐ろしいほどの睡魔が襲ってくる。
一昨夜もミアと明け方まで作業をしていたため、丸二日寝ていなかった。
なんなんだろう、これ。
ついさっきまで平気だったのに。
あまりにも仕事にならないので、後ろ髪を引かれながらも少しだけ仮眠を取ろうかと思案していた矢先だった。
どやどやと、俄かに部屋の外が騒がしくなった。
何だろうと何気に扉の方を眺めていると。
ドカッ! と大きな音を立てて、作業部屋の扉が勢いよく開いた。
「レティア、いる!?」
懐かしい声が耳に届く。
見れば、両手に大きな荷物を抱えた女性が立っている。作業部屋の扉は、どうやらその人物に蹴り開けられたようだ。
「ああああぁぁぁ……! レティア、いたぁ〜〜〜!!」
女性は荷物を放り投げ、大手を広げてレティアに走り寄ると、大袈裟なハグを披露する。
「可哀想に、酷い目に遭ったわねぇ……! 私たちが来たからには、もう大丈夫!」
「……シーラ、さん?!」
これは一体、どういう事だろう。
あっけに取られていると、廊下の外がまた騒がしくなって。
「やーん! レティアぁぁ!!」
「おっつかれ〜〜」
「やふー」
なんて、それぞれが自由な朝の挨拶(?)をしながら、仕立屋のコスチュームを纏った女性たちが作業部屋に入ってくる。
突然に訪れた《珍客》はあっという間に数を増し、最後の一人でなんと八人を数え上げた。
「これで足りなかったら、明日はアンブレイスの針子の総動員よ〜!」
「…………?!」
レティアを思い切りハグし終え、今度はずらっと並んだ女性たちの中央に立って「エイエイオー」と拳を掲げて指揮を取っているのは、仕立屋アンブレイスの店長のシーラだ。
レティアは呆気に取られたまま、訳が分からず。
「シーラさん、これ、は……?」
「ちょっとぉ、レティアったら。ヒルデガルド王妃様に何をしたのよぉ」
「お、王妃様?!」
縁もゆかりもないお名前に、目を丸くする。
レティアの肩を自分の肩で突きながらニヤニヤしているシーラは、レティアを咎めているわけではない。
ただ、何かに、ものすごく感心しているふうだった。
「私は何も……。王妃様になんて勿論、お会いした事も無いですし」
「あら、そーお? おかしいわねぇ」
と、今度は自分の顎に手を当てて考える素振りをする。
「王妃様から直々にお呼びがかったのよ。レティアが大ピンチだから助けてあげなさいって。あっ、表向きは、王妃様のドレスのお仕立てで呼ばれたって事になってるんだけどね!」
レティアは息を吸い込んだ。
まさか。
ラエルが王妃殿下に手を回してくれたのだろうか……?
だとしても、今はまだ朝の七時を過ぎたところ。昨夜の今朝で、シーラたちの到着が少し早すぎやしないか。
レティアの困惑などお構いなしで、シーラは床に転がったリボンの薔薇の残骸を手に取る。
「うわぁ、これは酷いわねぇ……。というか。せっかくの作品に何て事してくれちゃったのかしら。こんな事をして、洋裁の神様も、生地の神様だって激おこよ……誰よりもこの私が!!」
シーラは目の中にメラメラと炎を燃やしている。
──し、シーラさんってこんな感じの人だったかな……?!
兎にも角にも、ここに揃っているのはアンブレイスが誇る優秀な針子たちだ。
面々の中には、レティアにいつも厳しい目を向けてくる先輩ソワイエールのアネットや、昨日追い出されたばかりのミアもいる。
「こんな早朝に……っ。皆さん、駆けつけてくださったなんて」
突然に訪れたこの事態に、レティアの意識がまだ追いついていない。
「ん〜。今日を入れて、現状あと丸1日と数時間かぁ。まっ、アンブレイスのメンバーを総動員すれば何とかなるでしょう! 皆んな、今夜は寝させないわよ〜っ」
「総動員って、シーラさん……本気ですか?! だって、その間、工房は……」
「工房なんてどうにでもなる。大事な仲間の一大事でしょ? みんな喜んでついてきてくれたのよ。レティアが日頃から頑張ってる姿、見てないようで、みんなちゃんと見てきたからね」
──夢じゃ、なかろうか。
アンブレイスの針子たちが、自分の仕事を放り出して駆けつけてくれたのだ──レティア一人のために。
そんな事を知れば、また泣いてしまいそうになる。
「勘違いしないでよ?」
すれ違いざまに届いた声は、アネットだ。
「私はただ、自分たちが手がけた作品が心配だっただけだから」
言いながらも、アネットの口元は穏やかに微笑んでいた。
もしかするとアネットは、仕事に厳しく熱心なだけで、心根は優しい人なのかも知れない。
「アネットさん……」
レティアが目を潤ませていると、
「感動の再会だけど、メソメソしてる時間はないわよ?! さっそく作業に取り掛かりましょう。切られた薔薇は、残念だけどもう使い物にならないわね。新しいリボンを持ってきたから、まるッと作り直しちゃいましょう」
シーラの的確な号令のもと、針子たちが各々の配置につく。
八人が二人一組になって、ドレスの修繕とダメージのない薔薇の縫い付け、そして新たなリボンの薔薇の制作に颯爽と取り掛かった。
「……っ」
呆気に取られたままのレティアの背中をシーラがポンポンと叩く。
「どうせろくに食べてないんでしょ? サンドイッチを持って来たの。さ、これを食べて、あなたは少し休みなさい。その手だって、もう無理をしない方がいい」
「シーラさん……私……なんてお礼を言ったらいいのか。皆さんにも……っ」
「何言ってるの。ドレスの仕立ては、アンブレイス皆んなの仕事でしょう?」
押し付けられるようにサンドイッチの包みを手渡され、優しい言葉をかけられて。レティアの涙腺がついに崩壊した。
ポロポロと泣くレティアをシーラがもう一度抱きしめてくれる。
「ここまで、あなたは本当によく頑張ったわ。その手を見ればわかる」
シーラの胸元を涙で濡らしてしまう。
そんな事を気にしながら、レティアの心はどうしようもないほどの感謝と暖かさで満たされていた。
──でも……王妃殿下が、どうして。
胸の中にぽつんと、たった一つの疑問を残して。