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50・幸せと絶望の狭間で


 * * *




 レティアと、それまで白いもふもふの子犬だった──ラエルは──無言のまま噴水の袂に行儀よく並んで座っていた。


 ──気まずい。気まずいが過ぎる!


「…………」


 ラエルはといえば、そわそわと落ち着かず。口元に手を当てたり、手のひらで顔を覆ったりしているようだ。

 かなりの身長差があるため、並んで座っていてもラエルの頭の位置は高いところにあって。真っ赤になって俯くレティアには、横を向いて見上げなければラエルの顔が見えない。けれど見上げる勇気が、今は持てない。


 ──彼は、彼女は。どんな顔をしているのだろう。

 お互いに気にしあって、気まずさで無言になってしまう。


 少なくともレティアの顔はやばすぎる。

 泣いたり驚いたりし過ぎたせいで、頬が炎のように火照っているのが鏡を見なくてもわかるほど。

 更には涙の痕跡がカピカピに乾いて、紅色の両頬に薄い糊を貼りつけたようになっている。

 何より、とにかく、お互いに恥ずかしすぎだ。


「あ、あの……レティア」


 口火を切ったのはラエルだった。

 落ち着いた低い声がいつもより上ずって聞こえたのは、レティアの気のせいだろうか。


「……は、はい」


 俯きながら答える。恥ずかしさで蚊の鳴くような変な声が出てしまった。


「驚かせてしまって、すまなかったと……思っている」

「……」


 しばしの沈黙が続いたあと、意を決したレティアが問いかける。


「ラエル……様は、何故、子犬の姿をしていたのですか」

「その。私は眠れない時、《変身薬》を使って子犬になり、この庭を散歩しているんだ」

「変身薬」

「ああ。子犬の姿だと目立たないから。だが薬の効果は半時間だけで。半時間を過ぎた途端、こんなふうに元の姿に戻ってしまう」


 あの白いもふもふワンコは、なんと変身薬で子犬に姿を変えたラエルだった。

 今までの事を色々と思い出すと、ラエルの顔を見るどころか顔を上げることすら叶わない。


 ──私……。わんちゃんを抱っこしたり、キスしたりしちゃったんだもん……っ


 知らなかったとはいえ、レティアの取った行動はラエルにとって残酷すぎるだろう。

 レティアは大きく息を吐き出した。

 叶う事ならば今すぐ魔法陣の中にでも飛び込んで、異空間のどこへでも飛ばされてしまいたい。


 ──とてもじゃないけど、ラエルに会わせる顔がない……!


 子犬の姿だったとはいえ。ラエルとて否応なしにレティアに抱きすくめられ、キスやら頬擦りやらをされて、気まずさで押しつぶされそうになっていたはずだ。


「……」

「……ッ」


 また、沈黙が続いた。

 けれど、その沈黙を破ったのはまたしてもラエルのほう。


「君が子犬の私に話してくれた、アーナスのドレスの修復の事だが」


 ラエルの声はもう上ずっておらず、いつも通りの毅然とした物言いに戻っていた。

 寧ろ低く響いた声色に少し驚いて、次にどんな言葉が続くのだろうと不安になる。


「ぇ? あっ……はい」


 そうだった、とレティアの気まずさに拍車がかかった。

 ラエルは王族の血筋で、アーナス姫が王太子殿下の正妃ともなれば親戚になる、言わば家族のようなもの。

 それなのに、まるでアーナスへの悪態とも取れるような発言をし、彼女の行いの被害に遭い、窮地に立たされているとまで打ち明けてしまった。


 いくらレティアに優しく接してくれるラエルであっても、王太子妃候補のアーナスに対するレティアの不敬を問わざるを得ないだろう。


 ──ドレスが完成してもしなくても、お咎めは免れない。


 膝の上で握り締めた両手の拳に知らずと力が籠る。

 泣き虫だからと自覚して、どうにか堪えようとしても、一度緩んでしまった涙腺からは涙がまたじゅわっと滲んでしまう。


「……っ」


 熱い涙は何よりも、自分の不甲斐なさのせいで大切な家族を巻き添えにしてしまうという負い目によるものだ。


 肩が、指先が、ぶるぶると震え出す。

 そんなレティアを、ラエルは横目で見ていた。


「温情をいただけるよう、私から王太子に事情を伝えておこう」


 てっきり咎められると思っていたのに。

 思いがけない言葉が降ってきて、え、とレティアが顔を上げる。乾ききった涙の白い筋が恥ずかしいなんて今更言っていられない。


「そ、それはいけません……!」


 レティアは慌てたふうに激しく首を振った。


「何故だ? 今回の事は明らかに、アーナスの君への嫌がらせによるものだ。事情を話して理解が及ばぬほど、王太子はわからず屋じゃないよ」


「違うの……。王太子殿下に話すだなんて、いけません……ラエル様っ」

「それなら。私が直接アーナスに話をつけようか?」


「それもダメです……!」


 ──理由はわからないけれど、私はアーナス様に疎んじられている。目のかたきにもされている。アーナス様は、私を助けようとするラエルに不信感を抱くかも知れない。可愛らしいかんばせの下に……人を人とも思わない残忍さと精神の危うさを隠している女性ひと。ラエルにも何らかの被害が及ぶかも知れない。私のことで、ラエルに迷惑をかけるわけにはいかない……!


 ぶんぶん首を振るレティアに、ラエルはやれやれと嘆息する。


「レティア。私は君と君の家族を助けたい。このままでは君も、君の家族も投獄されてしまうのだろう? そうならない為に、私も最善を尽くすと言っているんだ」


「自分に与えられた試練だから、自分でなんとかします。ですから……さっき話した事は、どうか聞かなかった事にしてください」


 涙目で言い張るレティアの剣幕に、ラエルはとても驚いたような顔をしている。レティアは両手でラエルの二の腕を掴むと、縋るような目をして訴えた。


「ラエル……様……っ。お願いです、後生ですから。今夜、私が話した事は全て聴いた事。ラエル様に話したのではありません。だから、ラエル様は今夜、何も聞かなかった。いつものようにただ、美しいお庭をお散歩していただけ……。お願いですから、そういう事に、しておいてください」


 ──彼女は何故、私の救いの手を拒むのか。


 ラエルにはその想いがわからなかった。ただ潤んだ瞳で懸命に訴えるレティアの強い意志だけは、痛いほどに伝わってくる。


「レティア……」


 自分の二の腕を掴むか細い指先は赤く腫れており、よく見れば傷だらけで、痛々しいほどに荒れていた。

 これも一人きりで無理な期限付きの針仕事をさせられているせいだろう。

 そんな事を思うと、ラエルも胸の奥がシクリと痛む。同時にそのような仕打ちをレティアに強いるアーナスへの苛立ちと得体の知れない怒りが募り、胸糞悪さで息苦しくなるのだった。


 ──ただでさえレティアは、得体の知れない女に恐ろしい目に遭わされたばかりじゃないか。


「わかった。別の方法を考えよう。私は君が嫌がる事はしないよ。約束する」


 赤く腫れたレティアの指先に、ラエルは自分の手のひらをそっと重ねた。包んだ細い指先はひどく冷たく、小刻みに震えている。


 ラエルの言葉に安堵したのか。潤んだ長い睫毛を震わせながら、レティアは寂しげに微笑んで頷いた。


「有難うございます……ラエル様」


 ──本当は、すごく怖い。

 ラエルの優しさに縋りつきたい。泣いて助けを求めたい。この窮地から逃れたい。家族を巻き込みたくない……!


 弱音を喉の奥に押しやって、ぐっと奥歯を噛みしめると、目尻からまたもや雫が落ちた。堪えても流れてくる涙に自分でも呆れ果ててしまう。


 そんなレティアの頬に流れた涙を、伸びてきた親指がすっと拭った。


「……!」


 驚いて身を引くレティア。

 見上げれば、ラエルの蒼い瞳が途方もなく優しく揺れている。


「私も君に頼みがある。私の名に敬称は要らない。レティアには名前で呼んで欲しい。これからも、気安く接してくれればいい……約束だ」


 レティアは一瞬きょとんと目を丸くしたが、頬を緩めてこくりと頷いた。


「ラエル……。有難うございます」

「だから敬語も無しだよ」

「そんな。目上のお方です」

「気安く接するという約束は?」

「そ、それは」

「決まりだな。今後、私に必要のない敬語を使ったら。ペナルティだ」

「ええっ!」

「はは、そんなに怖がらなくても」

「ぺ、ペナルティーだなんて……どんな?」

「んー……そうだな。私と二人で食事をする、とか」

「……」

「どうして笑うんだ?」

「だって」

「ン?」

「それは言えないわ」

「えぇ……?」


 ただ微笑むレティアに、ラエルは「参ったな」と額に手をやって項垂れている。


 ──だって。それってペナルティじゃなくて……ご褒美です。


 ああ、だめだ。

 また熱いものが溢れてしまう。ラエルとこんなふうにまた話せた事が途方もなく嬉しい気持ちと、底なしの絶望とが、心の中で絡み合っている。


 ──ラエルと二人で食事をする。

 そんな夢のような幸せは訪れないと、わかっているから。


 独房からこの美しいお庭が見えればいいのに。

 ふと、そんな事を思った。


 ──どんなに酷い目に遭わされても、私からラエルと過ごした時間の記憶は奪えない。離れていても、もう二度と会えなくても……この記憶があれば生きていける。


 心地よい夜風がレティアの白金の長い髪を攫っていく。群青色の夜が深まっていく。


 ──私はドレスを縫う。

 その先にどんな残酷な結果が待っていても。






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