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49・願った先には


「……なぜ、なの……?」


 膝の上で、破れたままのドレスを両手のひらでぎゅっと握りしめる。

 新人のレティアの仕事が気に入らないのはわかる。

 けれど、なぜこれほどまでの仕打ちを受けなければならないのだろう。


 ── やる気、根気……負けん気。


 じんじんと脈打つ指先の痛みを感じないように、心の中でそう唱え続けた。


 どうにか、このまま、二日間。

 死に物狂いで頑張れば、きっと終わる、終わらせてみせる。


 ──大丈夫よ……レティア。絶対に終わる……終わらせる……終わらせ、られる……?


 針を握りしめた拳の上に、ポタッと熱い雫がこぼれ落ちた。


『私の小さなレティは本当に泣き虫だなぁ』


 大好きな亡き父の優しい笑顔が眼裏に浮かぶ。

 些細なことですぐに泣いてしまうレティアの頭を、大きな手で何度も撫でてくれた。


 ──お父様。昔も今も、私はだめな泣き虫ですね。


 思い出した途端、見える景色がじゅわりと滲む。

 とは言え父を失ってからの二年間、レティアはほとんど泣いていない。

 涙に暮れる母を見れば、泣けなかった。


 堰き止めていた想いが溢れ出す。熱い涙がとめどなく流れ出て、ぽたぽたと膝の上に落ちた。


「……お母様……ルカ……ごめん、なさい……」


 自分のせいで、病弱な母親と弟のルカが捕えられてしまう。

 レティアのみならず、あの二人までも、暗く冷たい牢獄の中で生涯を終わらせる事になってしまう。

 同じ場所にいられるかもわからない。

 それぞれが独房に入れられてしまったら、家族の顔を見ることすら、もう──。


 袖で涙を拭いながら、ドレスを膝の上に引き上げようとした。

 けれど、頭は必死で頑張っているのに、力が抜けてしまった身体が思うように動かない。


「お父様……。私たちを、助けて」


 声にならない声で願った。

 立ち上がってドレスをカウチに置くと、ふらふらと歩いてバルコニーの扉を開ける。程よく涼しい外気が心地よくレティアの耳元を掠めた。


 どこからか聞こえてくる水音に誘われて、庭に降りた。

 整えられた芝生を、正気を失った幽霊のように歩いていく。自分がどこに向かっているのかなんて、今はどうでも良かった。


 明るい月明かりに照らされた中庭は白薔薇が咲き誇り、正方形に植えられた樹木を刈り込んだ成形庭園が、前庭の方角に向かって続いている。


 トピアリーガーデン。

 王城に初めて来た時、レティアが心を奪われた美しい庭園が目の前に広がっている。

 前庭よりもこぢんまりとはしているものの、庭園の中央には水飛沫みずしぶきをあげる大理石造りの噴水が配置されていて、噴水の左右には二兎のウサギの形に刈り込んだ「緑の彫刻」が向かい合って並んでいた。


 噴水の音に導かれるように近づいて、煌めく水面をぼうっと眺めていると。

 視界の端で、小さな白い何かが動いた。


「……ぇ」


 声が漏れそうになるのを、口元を押さえて我慢した。

 レティアがみじろぎもせずにいると、白くてふわふわしたものが、確かにガーデンの緑色の合間を塗って歩いている。


 ──あれは、もしかして。


 レティアの記憶にまだ鮮明に残る、あの夜、唐突にレティアの元にやってきた、愛らしいに違いなかった。


「わんちゃん……!」


 ついに、声をあげてしまう。

 するとレティアの声に気付いたのか、緑の奥にいたその白い生き物の動きが止まった。

 今のうちだとばかりに、レティアがその足を早める。

 白いものがすぐ目の前まで迫ったとき、やはりそれはあの時に見た綿毛のような丸っこい子犬に違いなかった。


 小さな白い犬は、レティアの姿を認めると、一瞬ギョッとした──ように見えた。

 レティアにくるりと背を向けると、トコトコと走り出す。


「待って、わんちゃん……っ」


 ウサギのトビアリーの周りをぐるぐる回って追いかけっ子をするような格好になる。


「お願い、待って……。少しでいいの、話を、聞いてほしいの……!」


 言葉が通じたのかどうかは謎だけれど、息を切らしながら話を聞いてほしいと言ったレティアの言葉に、白い子犬が反応したのは確かだった。

 逃げ続けていた短い足をふっと止めて、犬がゆっくりとこちらを向く。


「あぁ……わんちゃん!」


 嬉しくなって駆け寄れば、もふもふを抱え上げてぎゅうっと抱きしめると、子犬の顔に思いきり何度も頬擦りを繰り返した。


 その子は確かに、レティアの癒しのわんこに違いなかった。

 もふもふに頬を埋めていると、なんだがとても安心をして。レティアの目がまたうるうる潤み始める。


「ごめんね……っ、泣いたり、して。でも、もう少しだけ、このままでいさせて……」


 抱っこしながら、優しいキスの雨と頬擦りを繰り返しながら噴水の袂に腰かける。

 子犬は──体を硬直させていた。


 人間の言葉を犬が理解するとは思っていない。

 だからこそレティアも、心の内側を臆することなく晒すことができた。


「……私、もう……どうすればいいのか、わからなくて」


 白い犬を胸元に抱きしめながら、心のままにレティアが置かれた窮地を打ち明けた。

 白い子犬は、ぎゅうっと抱かれる事に始めは抵抗を示していたものの、しばらくすると大人しくなった。

 申し訳程度にくっついた丸い耳(っぽいもの)をそば立てている。こうなると、レティアの話を本当に聞いてくれているような気さえしてくる。


「全部声に出して話したら、なんだか落ち着いたわ。あなたって不思議な子ね……? 野良ちゃんかと思ったら、いい匂いがするし。真っ白で汚れていないし。あなたは王城で飼われている高貴な子なのね」


 言いながらレティアは、子犬の前足を持ち上げて、自分の鼻に犬の鼻先を「うーん」と近づける。

 怖いのだろうか、犬が顔を背けたような気がしたが、レティアは気にしない。


「ふふっ。あなたの香り。私の好きな人に少し似ているのよ? その人はね、とても立派な人なの。王都の治安を守ってくれていて……凛々しくて、優しくて、カッコよくて。危ないところを、助けてくれた人なの」


 ウットリしながらレティアが微笑みかけると、子犬はふるりと身を震わせた。

 そのまま、ぶるぶると震えている。


「寒いの……? ちょっと冷えてきたものね」


 レティアは震える犬を温めるように、もう一度抱きしめた。


「私ったら、すっかり話し込んでしまったわね。ミアさんが帰されちゃったから、話し相手もいないの。だから……私のお部屋を覚えていたら、また遊びに来てくれないかな」


 あたためているのに、犬の震えは止まらない。

 ぶるぶると、まるで痙攣するように──・・・


「どうしたの。あなた、平気?」


 流石に心配になったレティアが子犬の顔を覗いた、その直後。

 白いもふもふがレティアの膝の上から逃れるように飛び降りる。

 途端、犬の身体が白い光に包まれた。


「……?!」


 一体、に何が起こっているのだろう。

 犬を包んだ光がどんどん大きくなっていく。その間、わずか十数秒。

 光とともに白いモヤのようなものが晴れたとき──《人間の男の背中》がレティアの目の前に現れた。


「へ?」


 背の高い、白いシャツ姿の、鍛えられた背中だ。

 薄金色の整えられた髪には、はっきりと見覚えが、ある。


「………………」


 長い、沈黙が、よぎった。

 彼は……その男性は、レティアに広い背中を向けたまま無言で立ちすくんでいたが、その場にゆっくりとしゃがみ込んだ。

 かくれんぼの鬼のようにしゃがんでいて。よほど見られたくないのか、両手で顔面を覆っている。


 その場から逃げ出したくて仕方がないが、逃げる場所がなくて困り果てたように丸くなった背中には……侘しさが漂っていた。


 一瞬、のけぞり、身構えるレティア。


「……ぇぇぇえええ?!」


 静けさに包まれた庭園に、レティアの叫び声が響き渡った。






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