* * *
レティア一人が残された作業部屋は、がらんとした静寂に包まれている。
ミアが残していった裁縫箱を膝の前に置き、床にぺたんと座り込んでしまったレティアはポツリと呟いた。
「……
両手でやっと抱えられるほどの大きな裁縫箱の中は、色鮮やかな縫い糸や使い込まれた裁縫道具が整然と並んでいる。レティアにとっていつもは眩しいばかりのそれらが、今は白々しく燻んで見える。
優秀なソワイエールとして繊細な手仕事をこなし、これまでレティアの縫製の舵を取っていた先輩のミアは。作業部屋に押しかけた侍従たちによって半ば強引に、まるで連行されるように連れて行かれてしまった。
「やる気、根気、負けん気……」
さして多くもない荷物──着替えは全て来客用に支給されたものだったため──をそそくさと作業鞄に詰めながら、ミアは口調を早めて言った。
「厄介なリボンの修繕は昨日のうちに仕上げてある。私が付けておいた本体の目印をチェックして、そこにリボンを縫い付けるだけ。あんたがアンブレイスに来てから見てきた事を思い出すの」
「見てきた、事……」
「ええ、そう。基本の縫い方はシーラさんから教わったはず。大事なのは、どれだけ丁寧に縫い付けるか、
──それだけ。
ミアは言ったけれど、縫い付けるリボンの数は相当数。
プロのソワイエールでも数人がかりで数日かける手仕事を、半人前のレティア一人がたった二日で仕上げられるとは到底思えない。
「ミアさん……私に……できるでしょうか」
不安げに俯くレティアに、先輩風を吹かせたミアが西国訛りの言葉で喝を入れる。
「あほ! 出来るも何もやるしかない。やる気、根気、負けん気! あんたにはそれがあるんじゃなかったん? シーラさんだって期待してる。だからあんたみたいなド素人をアンブレイスで雇ったんやろ……!」
あの時、不意に顔を上げたミアの瞳は真摯に揺れていた。
シーラだけでなく、ミアもレティアに期待している……そう言って、励ましてくれたような気がした。
「レティア……!」
侍従の後ろを歩きながら、扉の前に佇むレティアを顰めっ面で見遣りながら、ミアは叫んだ。
「
レティアは静かに目を閉じる。
──やる気、根気、負けん気。
こうしている間にも、刻一刻と時間は過ぎていく。一分一秒でも無駄にすることはできない。
期限の事は、今はまだ考えないでおく。
出来るだけ迅速に、かつ丁寧に作業をこなし、一つでも多くの薔薇を縫い付けていく──それだけを考える。
「……よし!」
名札入りの作業エプロンを身につけると、トルソーから衣装を脱がす。大きくて重いトルソーを一人で扱うだけでも、手間がいる作業だ。
縫い付ける部分の生地の修繕が終わっている事を確認し、箱の中に嵩高く積まれた桃色の薔薇の一つを手に取った。
「ムツハコで、縫い付ける……?」
ムツハコ、という言葉は聞いたことがある。けれどすぐには思い出せない。
「えっと、ムツハコは確か……六つの、箱」
自然と唇から言葉が溢れた。
気を抜けばがらんどうになりそうな頭の、記憶の引き出しを開けたり閉じたりしながら、アンブレイスの工房に想いを馳せた。
「マッカーソン夫人のドレス……マッカーソン夫人、マッカーソン夫人……!」
この珍しい名前のご婦人は侯爵家の奥方で、アーナス姫と好みが似ている。
四十路を過ぎているものの、派手な意匠を好まれ、裾に大きなリボンを縫い付けたドレスを仕立てたのはレティアの記憶にも新しい。
目が醒めるようなスカイブルーの生地とサテンのリボンが頭の中を掠めたとき、レティアの記憶の引き出しの一つがパタンと開いた。
「六つ箱縫い、思い出したわ!」
《六つ箱縫い》とは、リボンを回らないようにしっかりと固定して縫い付ける縫製方法の一つで、リボンの中央部分と四隅の五点、糸止めの一点の合計六点を、四角い箱型に縫い付けていくというもの。
「ミアさん、ありがとうございます……っ」
心の中で何度もお礼を繰り返しながら、丁寧に薔薇の土台のリボンをドレスの本体に縫い付けていく。
丁寧に……でも、出来るだけ早く。
「痛!」
勢い余って針で指先を突いてしまった。
親指の頭に、ぷくり、と血玉ができてしまう。
この血で生地を汚すことがあっては一大事だ。ドレスを置いて立ち上がると、タオルで丁寧に血玉を拭う。けれど、すぐに血は止まらない。
血玉を拭いつつ、慎重に作業を進めていく。
──やっと、一つ。
サテン生地はスルスル滑って縫いづらく、一つ縫い付けるだけでも時間がかかってしまう。
けれど、二つ、三つ……と縫い付けていくうち、だんだんと手が慣れてきた。
「よし……! いい感じに縫えてる。この調子で縫っていけば、二日あれば全部縫い付けられるかも……っ」
やる気、根気、負けん気。
やる気、根気、負けん気。
暗闇で覆われてしまった心の隅っこに、ポッと一つ、灯りが灯ったような感覚だった。
──大丈夫よ、レティア。絶対に終わる。終わらせる……!
じんじんと脈打つ指先の痛みを感じないように、挫けないように。
ぐ、と奥歯を噛み締める。
針を持つ手に力を込めながら、心の中で唱え続けた。
*
どのくらい時間が経っただろう。
夢中で縫い進めているうち、窓の外はすっかり暗くなっていた。夜の帷が落ちて、群青色の夜空に騒つく木々が黒々と揺れている。
いつぞやにメイドが持ってきた簡易的な夕食は、手をつけないまま干からびてしまっていた。
「……ぇっ……」
ドレスを確かめるレティアの手が止まる。
ガサガサッと衣擦れの音をさせて、洋燈の明かりの下に生地を照らした。
──嘘、どうして?!
リボンで仕立てた薔薇の花を引きちぎった際に破れてしまった本体の生地は、ミアが全て修繕を終えていたはずだ。
なのに何故か、
ガサガサとドレスの生地を改めて見てみると、他にも何箇所か修繕し終わっていない場所がある。
「…………!」
ミアが見落としたのだろうか。
生地にリボンを縫い付けるだけなら、レティアでもどうにかなるものの、破れた生地を目立たぬように繕うとなると。
自分たちのような平民が普段に着る服ならまだしも、王族の、しかもあのアーナスのドレスだ……素人の手仕事ではどうにもならない。
「どうしよう……。リボンを縫い付けるだけでも時間がギリギリ、間に合うかどうかの瀬戸際なのに。生地の修復もしなければならないなんて……っ」
とにかく、途方に暮れている間も今は惜しい。
悩むのは後にして、縫える場所だけでも。
挫けそうになる心をどうにか奮い立たせ、箱の中のリボンを手に取った。
「…………!?」
昨日、ミアと全てのリボンの薔薇の修繕を終えた筈だった。明け方近くまで、抜けがないかを一つずつ丁寧に確認もした。
それなのに──
「どうして……こんな……!」
箱を持ち上げ、リボンの薔薇の花の全てを床にぶちまける。
その半分近くが、無惨にも切り裂かれていた。
この切り口は、明らかに人為的なものだ。
──まさか……。
アーナスの勝ち誇ったような笑い声が聞こえた気がした。
狙った獲物は、必ず仕留める。
どんなに足掻いても、もう二度と這い上がれない蟻地獄の下に落とされたような気持ちだ。