*┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈*
「お前たち!」
冷ややかな眼差しが、呼び出されたレティアとミアに向けられる。
その日、アーナスの機嫌は最悪だった。
ひとり掛けのカウチにどかりと腰を下ろし、苛立ちをぶつけるように閉じた扇子をカウチの肘掛けに小刻みに打ち付けている。
「……」
傍に並ぶアーナス付きの三人の侍女たちも、何故だか今にも泣き出しそうに眉を顰め、表情を暗くしている。
彼女らが額に滲ませた冷や汗や強く握りしめた拳からも、彼女らの恐々とした表情からもアーナスの不機嫌さを察することができた。
「この本宮は、国王と王妃を筆頭とした王族の縁者と、高貴な身分を持つ者たちだけが寝食を許される場所だ。下民である針子風情のお前たちが何故、かの本宮に留まっている。いったい誰の指図だ?」
これまでの経緯を全て忘れたかのような口ぶりに、レティアとミアは眉を寄せて顔を見合わせた。
数日前、当人のアーナスによってドレスのリボンが引きちぎられた。レティアたちはそのドレスの修繕のため、アーナスの気まぐれな命令で王城に寝泊まりをしている。
コツ、コツ、コツ……コッ!!
閉じた扇子の親骨が、カウチの肘掛けに激しく打ち付けられる音。
侍女たちがぶるりと身を震わせる。
「…………」
「誰の指図だって聞いているのよ!」
今度は拳をドンと肘掛けに打ち付けて、苛立ちを抑えきれないといったふうにアーナスが椅子から立ち上がった。
驚いたレティアとミアの背筋が伸びる。ミアがレティアの目にしきりに訴えてくる……「ほら、あなたが答えるのよ」と。
何故だか理由はわからないが、今日のアーナスは
レティアの心臓がどくどくと早鐘を打ち始めた。
「あ、アーナス様です」
「はぁ〜?! レティア・ヴァーレン! お前は、このわたくしがお前たちのような
「……っ……」
アーナスは今、鼠、と言っただろうか。
レティアは、ぐ、と奥歯を噛み締める。
できる事なら答えたくない。
けれど投げられた質問には答えなければならない。
「畏れながら申し上げます、アーナス様。アーナス様は、ドレスの修繕を王城ですることを、私たち二人に対してお許しになられました」
否応なしに命令された、などと、本当のことを正直に答えてはいけない──。
レティアの本能が瞬時に告げる。これでも精一杯、事実をオブラートに包んだつもりだ。
「おやおやおや……」
アーナスのワインレッドの瞳が眇められた。
鼻で息を吐きながら、アーナスは再びカウチに深く腰を沈める。
「お前たちはどうやら、わたくしの言葉を歪曲して聴いたようね? わたくしが寝床として許したのは、あくまでも《王城内》。 誰が、本宮に寝泊まりしていいと言った……?」
レティアは思う。
アーナスの言い分は、もはや支離滅裂で滅茶苦茶だ。
「よろしい。わたくしはとても寛大だから、かの事は大目に見てやろう。その代わり」
アーナスは真紅のドレスの裾を揺らしながら足を組むと、ニヤリと口角を上げ、目を眇めて膝に片肘をついた。
「ミア、と言ったな? お前はもう王都に帰りなさい。アンブレイスの衣装屋とてお前がいないと困るだろう? 荷物を纏めるが良い。さっそく馬車を用意させよう」
「……ぇ?」
いきなり穏やかな口調で名前を呼ばれ、帰れと指図されて、ミアがハッと顔を上げる。
「レティア!」
アーナスの紡ぐ言葉が唐突に冷たい空気を孕んだ。
「お前は王城に留まり、ドレスの修繕を続けよ。期限はあと二日だ。もしも二日以内にお前の仕事を終えなければ──」
当人のレティアは然り、周囲に居る者たちが一斉にごくりと生唾を飲み込んだ。
「王太子殿下の婚約者であるわたくしの下命を全うできなかった罪と、わたくしの衣装をダメにした罪で、お前とその家族に百年の投獄を言い渡す」
──アーナス様は、いったい何を仰っているの?
レティアは耳を疑った。
目の前にいる女性は本当に、王太子殿下に可愛らしい微笑みを向けていたあのアーナス姫だろうか。
唐突に下された冷酷な命令に唇が震えている。
投獄、それも百年……家族と共に。
──ミアさんがいなければ仕事は進められない。私一人では到底、アーナス様のドレスの修繕なんてできない……。
指先がどんどん冷たくなっていく。
レティアとミア、そして侍女たちまでもが息を詰めたのを見届けると、アーナスは唇の端を持ち上げて勝ち誇ったような冷たい微笑みを浮かべた。
「…………っ」
この状況をどうやって切り抜けるべきか。
愕然としながらレティアが思案に暮れていると、アーナスが楽しげに声を弾ませる。
「そうねぇ……。お前のように生命力が強い鼠は暗くて寒い北の棟でじゅうぶんだと思ったけれど? 残り僅かな時間だものねぇ。今使っている部屋を使用することを許します。あと二日、そこでせいぜい頑張るのね? なんなら、好きな食事をリクエストしても良くってよ?」
投獄までの最後の晩餐を許すとでも言いたいのだろうか。
針子としては新人のレティアひとりきりの、ましてや僅か二日間という期限付きの修繕が不可能だと知っていて、アーナスは無理難題を言い付けたのだ。
── あの女は
ふと、ノアの言葉が頭をよぎる。
アーナスはもはや、ドレスの修繕なんてどうでも良いのではなかろうか。
レティアの苦悶に歪む顔が見たい、苦しめてやりたい……そんな想いが透けて見えた気がした。
──嫉妬深い……? 恐ろしい方……?
もしも本当にそうだとしても、なぜ私が、こんな仕打ちを……。
──お前のように生命力が強い鼠。
ノアが言うように、レティアが魔性の女に襲われた事件にアーナスが関わっていたのだとしたら。
何故、標的がレティアでなければならなかったのか。それとも、レティアが窮地に追い込まれている事を含めた全てが偶然だろうか。
その答えを導き出す時間も余裕も、今はない。
「ふふっ、畜生風情にまで気を配れるなんて。わたくしったら、なんて慈悲深くて優しいのでしょう!」
先ほどまでの冷酷な態度が急変し、乙女のように両手を頬に当てて腰をくねらせるアーナスは、すっかり自分に酔っている。
『……レティアっ』
ミアが声にならない声を放ち、悲壮な目で訴えてきた。
さすがのミアとて、レティアとこの窮状を案じているのだった。