ーーとある部屋からヒソヒソと声が聞こえる。部屋のドアは少しだけ空いていて、声の主の一人がエルヴィンだということがすぐにわかった。
「エルヴィン様、この子は安定期に入りました。いつになったら私を正式な妃にしてくださるのですか?」
ドアの隙間からそっと中を覗くと、そこには婚約者であるエルヴィンの腕にからみつく、可愛らしいご令嬢がいた。
(安定期、ということは子供を身籠もっていらっしゃるのね。……これで私は婚約破棄されるのだわ)
エルヴィンが他のご令嬢と懇意の仲になっていることは薄々勘づいてはいた。自分よりもそのご令嬢に夢中で、いつか自分は婚約破棄をされるのだろうと覚悟もしていたのだ。
(元々、政略的な縁談だったし、エルヴィン殿下は私に興味がないこともわかっていた。歩み寄れば少しずつでも分かり合えるかと思っていたけれど……それもやはり無理だったみたいね)
悲しげに微笑み、ローラは静かにその場を後にしようとした、その時。
「安心しろ、あの女はもうすぐ始末する」
「始末って……婚約破棄するのではないのですか?」
「あの女は生意気だ。それに第二王子を持ち上げる貴族たちに気にいられている。もし俺が婚約破棄して今度は第二王子と婚約、もしくは第二王子の取り巻きの貴族との縁談が進むなんてことになってみろ、俺の旗色が悪くなるだろ。あいつは頭がキレるからな、賢い女は政まつりごとには必要ない。消した方が安全だ」
「まぁ、こわぁい」
ご令嬢がキャッキャッと嬉しそうにはしゃいでいるのがわかる。
「あの女は俺に危険が及べば自分の身を差し出してでも俺を守るだろう。第一王子の婚約者として絵に書いたようなできた女だからな。俺をかばって死んだとなれば、死の原因を誰も怪しむことはないだろう」
話の内容を聞いて、ローラはその場に崩れ落ちそうになる。だが必死に堪え、なんとかその場から離れ自室に戻った。
エルヴィンから発せられた言葉は、つまり、自分を殺すということだ。婚約破棄されるならまだしも、殺されるほど嫌われていただなんて思ってもいなかった。
ぽろ、とローラの目から涙がこぼれる。自分は、そこまで必要のない人間だったのだ。家族にこの話を言ったところで、第一王子が相手だ、何もできないだろう。
ほとぼりが済むまでどこか田舎で静かに暮らせと言われるかもしれない。それは死んだように生きろと言われるようなものだ。それに、ほとぼりが済んだらまた別の誰かの婚約者にさせられるのだろう。
その相手に気に入られなかったら?自分はまた、居場所がないことを突きつけられるだけだ。
「どこにいても、私は私でいられないのだわ……」
◇
目尻に、涙が伝うのを感じて意識が戻る。フッと瞼を開くと、天井が見えた。
「ローラ様!」
声のする方を見ると、そこにはヴェルデが心配そうな顔でローラを見つめていた。
「ヴェルデ、 様……」
そうか、昔の夢を見ていたのだ。なぜ寝ていたのだろうかと思ったが、そういえばヴェルデの師匠であるクレイと話をしている最中に気絶してしまったのだった。
忘れていた記憶が夢に出てきて嫌でもはっきりと思い出される。あれは、過去に起こった現実だったのだ。
ゆっくりと体を起こすと、ヴェルデがそっと背中を支えてくれる。
「飲み物を持ってきましょう。それまで、ヴェルデと二人でゆっくり話でもしていてください」
そう言ってクレイは静かに部屋を出ていった。
「ローラ様、大丈夫ですか?」
「すみません、気を失ってしまったのですね」
申し訳なさそうに微笑むと、ヴェルデは辛そうな顔でローラを見つめ返す。
(そんな……辛そうな顔をしないで)
あまりにも苦しそうな、悲しそうなヴェルデの表情にローラは胸が押しつぶされそうになる。ふと、ヴェルデの指がローラの目尻へ静かに触れた。
「泣いて、いたのですね」
ヴェルデにそう言われた瞬間、またローラの両目から涙がこぼれ落ちてきた。どうしてだろうか、ローラは戸惑うが涙は止まってはくれない。
必死に両手で涙を拭っていると、フワッとヴェルデの両腕がローラを抱き締める。
「ローラ様、お辛いのでしたらもっと泣いてください。全部俺が受け止めます。どんなことでも受け止めますから、抑え込まないでください」
ヴェルデの言葉にローラは大丈夫だと答えようとしたが、できなかった。ローラの両目からはどんどんと涙が溢れ、嗚咽が漏れ出る。
ローラがどんなに抑えようとしても、自分の中から絶望や悲しみが溢れ出し、止まらないのだ。ただただ泣き叫ぶローラを、力強く、でも壊れないように、ヴェルデは必死に抱きしめた。
「あなたの悲しみに寄り添えていると思っていました。あなたに居場所を作ってあげられたと勘違いしていました。でも、あなたはもっともっと深い悲しみを抱えていたのですね。俺はそれに気づくことができなかった。もっと早く気づくことができていたら……」
ぎゅっとヴェルデがローラを抱き締めると、ローラはさらに泣きじゃくり始めた。
「ヴェルデ、様は、何も、悪く、ない、です……こんな、私に、居場所を、作って、くださったのに、私は、私は」
ヴェルデの腕の中で必死に言葉を紡ごうとするが、嗚咽が混じってうまく喋ることができない。そしてそのままローラはひたすらヴェルデの腕の中で泣いていた。
どのくらい泣いていただろうか。少しずつローラは落ち着きを取り戻し、涙もようやく止まった。
「すみません。もう大丈夫です。ありがとうございました」
「本当に大丈夫ですか?」
そっとヴェルデの体から離れると、ヴェルデは心配そうにローラを覗き込んだ。ヴェルデの問いに、ローラは微笑んで頷く。
「たくさん泣いたら、スッキリしました。いつかの時と同じですね、ヴェルデ様には救われてばかりです。……クレイ様から、詳しいお話は聞いたのでしょう?」
「……はい」
「実は、あの日、エルヴィン様をかばったあの時、私はようやく死ねると思っていたのです」
ローラの言葉に、ヴェルデは両目を見開いてローラを見つめる。驚くヴェルデに、ローラは優しく微笑んで話し始めた。