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第52話

 現状、私の状況はほとんど詰んでいるといっていい。

 元より埋めようのないほどの戦力差。

 そして、私はすでに足を掴まれて逆さ吊りにされているのだから。

「さてどうしようかしら?」

 くすくすと笑うエレナ。

 彼女が操る骸骨は、私の右足をつまんだまま。

 体が揺らされるたびに体重が右足に集中してしまって痛む。

 せめて表情に出さないように努めているが、その抵抗がどれほど意味を持つのかは定かではない。

「どこから壊して欲しい?」

 そう彼女は語りかけてくる。

「順番くらいは選ばせてあげてもいいわよ?」

 自分で、自分のどこを壊して欲しいのか言ってみろと。

 加虐癖のある彼女らしい趣向だ。

 とはいえ当然ながら、怪我も傷みも歓迎できるわけもなく。

 返すべき言葉なんて

「そんなの……」

「えい」

 ボキリ。

 そんな嫌な音が鳴った。

「ぃぎぁぁッ!?」

 右足首に走る熱っぽい痛み。

 骸骨が手を離したのか、私の体が地面に落ちる。

 だが逃げることもできない。

 私は倒れたままうずくまり、右足を押さえる。

(痛い痛い痛い……!)

 涙でにじむ視界。

 そこには、あきらかに曲がってはいけない方向に曲がった右足が見えた。

(うそ……本当に折られてる)

 分かっていたつもりだった。

 エレナの嗜虐性は。

 だけど分かっていたつもりでしかなかった。

 まさかここまで躊躇いなく相手の足を折れるものなのか。

 激痛に支配された脳でそんなことを思う。

「良い顔ね。あなた自身の顔で見てみたかったわ」

 そう見下ろしてくるエレナ。

(だめ……本当に殺される)

 痛い。

 逃げるだとか立ち上がるだとかじゃない。

 体を蝕む激痛は、抵抗しようという意思そのものにヒビを入れてゆく。

「ぃゃ……!」

 それでも死にたくないと。

 這いずるようにして逃げとようとするが、すぐに骸骨の両手が私の体を捕らえた。

「ダ~メ」

 微笑むエレナ。

 今なら分かる。

 彼女が作中で悪魔と評されるわけが。

 ここまで相手の心を的確に折ろうとする存在が悪魔でないわけがない。

「ぐっ……」

 思わずうめき声が漏れる。

 骸骨の両手は、首から下を包み込むようにして私を捕えている。

 その手に力が加えられていけばどうなるか。

 そんなことは考えるまでもない。

「ゆっくりゆっくり」

 エレナの掛け声通りにゆっくりと。

 それでいて際限なく私を握り潰す力が強まってゆく。

「潰してジュースにしてあげる」

 両腕がメシメシときしむ。

 胸が潰れて息ができない。

 胃の中身が逆流してくる。

 折れていた足がさらに壊れてゆく。

「ぅ……ぁぁ……!」

 もはや言語でさえない声が出る。

 息ができないせいで声がまともに出ないのだ。

 そうでもなければ、きっと私はすでに命乞いの言葉を並べていただろう。

「あら痛そう」

 そんな私を見てエレナは笑う。

 にこにこと。

 出会ってから、一番楽しそうな表情で。

「でも、やめてあげない」

 そんな死刑宣告を下す。

(自業自得……なのかしら?)

 口を開いても酸素は取り込めない。

 ただ涎がこぼれ落ちてゆくだけ。

 脳は酸素を失い、意識がホワイトアウトしてゆく。

(他人の体で、この世界を生きていこうなんて思ったから)

 思い出すのは、これまで後回しにしてきた想い。

 考えても仕方のないことだと、忘れようとしていた考え。

(調子に乗って、悲劇を変えたいなんて思ったから)

 受け入れて欲しいだとか。

 何かを為したいだとか。

 他人の体で、自分らしく生きたいと思い始めてしまっていた。

 ――気が付けば、私は息を吸う努力をやめていた。

「あーら泣いちゃった」

 くすくすという声。

 涙と唾液と胃液。

 その境界が分からないほどドロドロに顔を汚した私を彼女は嘲笑う。

「でも許してあげない」

 エレナは目を細める。

 いつしか痛みは遠くなっていた。

 きっと酸欠でまともに脳が動いていないのだろう。

 意識が飛びかけているせいが、むしろある種の心地よささえ感じる始末だ。

「ここでゆっくり消えていきなさい」

(望んで手にした境遇じゃない)

 諦念に支配された心。

 そこに波紋が広がってゆく。

(大変なこともいっぱいあった)

 最初はエレナ=イヴリスが残した悪評に翻弄されてばかりだった。

 好きだったはずの世界が色あせてしまうほどに。

(だけど必死に頑張って、色々な人に助けられてここまで来た)

 しかしその状況は変わっていった。

 成果と誇るには些細かもしれない。

 それでも少しだけ何かを変えながら。

 ここまで生きてきたのだ。

(やりたいことも、やらないといけないことも残ってる)

 返してきた恩よりも、はるかに大きな借りを作りながらここまで生きてきた。

 それに報いたいと思ってここに来たのではないか。

 私を助けてくれた人たちが、幸せでいられますようにと。

 そんな未来を夢想してここに来たのではなかったのか。

「多分、私は間違えていると思う」

 自然とそんな言葉が口からこぼれ落ちた。

「は?」

 たった一言。

 その抵抗が気に食わなかったのか、エレナは不快そうに眉を寄せる。

「この体は貴女のもので、返すことが道理なんだと思う」

 私はエレナ=イヴリスじゃないから。

 その事実は、どこまで行っても変わらないから。

 この体が誰のものかと問われれば、それは目の前にいる少女の物でしかない。

「でもきっと、貴女にこの体を返したら、貴女は世界に不幸を振りまいてしまう」

 そう口にするも……しっくりこない。

 たしかに彼女は災厄の黒魔女とまで呼ばれた少女。

 だけどこの言葉は、私の心の奥底から出た言葉じゃない。

 そう感じた。

「ううん……そんなの言い訳だよね」

 そんなもっともらしい虚飾はいらない。

 私の心の奥底にある本音はそれじゃない。

「ごめんなさい……」

 口を突くのは謝罪の言葉。

「私は……死にたくない……この世界で生きていたい」

 そして、偽らざる本音。

 ワガママであることを自覚した、本当の気持ち。

「ソーマが無事に帰れるのかを見届けたい。城に帰ってみんなに会いたい」

 そう思ってしまう。

 そう願ってしまうのだ。

 この世界の一員でいたいと。

 ここで終われないと。

 もっとこの物語を続けたいと。

「たとえ私が、ここで生きているべき命でなかったとしても……生きたい」

 私は異物でしかない。

 水に混じった絵具。

 完結した世界をゆがめるイレギュラーだ。

 だけど、私はここにいて。

 ここで生きたいと思ってしまうのだ。

「分かってくれなくてもいい。恨んでくれてもいい。きっとそれは当然のことだから」

 彼女はこの世界の悪役だ。

 ――でも、彼女が悪役だったとして。どんな仕打ちを受けてもいいわけではない。

 原作でした所業はともかく、彼女が私に抱くであろう怒りは当然なものだから。

 彼女が持つ恨みを理不尽だとは思えない。

 彼女が抱いているであろう怒りは正当なものだ。

「だから本当にごめんなさい」

 ゆえに、これは本当にただのワガママだ。

「正しくないと思っていても、無駄だとしても、私は……抵抗します」

 私が正しいなんて口が裂けても言えない。

 だけど、正しくなくても生きたいのだ。

「――――」

 そんな私の宣言。

 返ってきたのは、ただただ冷たい視線だった。

「勝手にすれば?」

 これまでの嗜虐的な色のない、冷えきった声。

 エレナの顔から表情が抜け落ちている。

 痛めつけることさえ不快だと。

 すぐにでも目の前の存在を消したいという冷たい殺意だけがそこにあった。

「あなたの決意になんて、なんの価値もないわ」

 エレナの手が伸びてくる。

 なんとなく分かる。

 あの手が触れたとき、私は消える。

(だけど……諦めたくない……!)

 何かができるわけではない。

 もう体は動かない。

 それでも、最後の瞬間まで彼女の指先を睨みつけ――

「な――」

 その声は、エレナのものだった。

 ここで出会ってから初めて彼女が見せた動揺の声。

 その原因は――

(エレナの手が弾かれた……?)

 エレナの手が私の額に触れる直前、彼女の手が弾かれたのだ。

 それだけではない。

 彼女の手が手首あたりまで消失している。

 その断面からは紫の煙が立ち上っていた。

「ちっ……」

 エレナは舌打ちを漏らす。

「今の私じゃ体を奪えないってわけね」

 しかし、続く声は想像よりもずっと穏やかなものだった。

 諦めたような。

 関心を失ったような。

 そんな声だった。

「心を壊してしまえば抵抗もままならなくなると思ったのだけど」

 手首の消失がキッカケだったのだろうか。

 徐々に彼女の体の輪郭があいまいになってゆく。

 煙となり、彼女の体が薄らいでゆく。

「……欠片程度の魂ではこれくらいがタイムリミットってわけね」

 嘆息を漏らすエレナ。

 そして彼女は、


「まあいいわ。どうせ――――――――だもの」


 何かを口走った。

 だが、朦朧とした意識はその言葉を聞き逃してしまう。

「え……?」

 思わず聞き返すも、彼女が答えてくれるはずもなく。

 ただ、エレナは微笑んだ。

「さよなら。もう会わないことを祈りなさい」

 楽しそうに。

 意地悪く。

 不吉に微笑みながら消えてゆく。


「次に会うときは……あなたの人生がめちゃくちゃになる瞬間なのだから」


 その言葉の意味を私が知るのは、きっと先の未来になるのだろう。

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