ソーマを見送った後。
驚くほどスムーズに私は聖域の外へとたどりついていた。
自分が女神だと自覚したからなのだろうか。
聖域が私に牙を剥くことも、帰り道に迷うこともなかった。
慣れた場所のように、帰還用のゲートを見つけることができたのだ。
そうして私は元の場所へと引き返す。
――1人で。
「どうやら上手くいったようですね」
そんな私を出迎えたのはユリウスだった。
彼は腰かけていた倒木から立ち上がり、歩み寄ってくる。
「ユリウスさん……どうしてここに」
聖域に入った直後、私たちは雪崩と吹雪に巻き込まれた。
正確な時間はわからないものの、軽く見積もっても半日は経っているはず。
しかもここはエルフの森でありながら、エルフ自身も踏み込むことが許されない場所。
目撃されるリスクを思えば、すぐに離れているものだと思っていたのに。
「おや。ソーマさんが元の世界へと帰還なさった後、どうやって人里に戻るおつもりだったのですか?」
「うっ」
ユリウスが微笑みまじりにそう言えば、私は言葉を詰まらせることしかできない。
なにせ私はこのあたりのモンスターすべてに敗北する弱キャラなのだ。
彼の助けなしには下山もままならないだろう。
それを理解していたから、彼は私を待ってくれていたのだ。
――本当に私が戻ってくるかも分からないというのに。
「それでは、貴女を町まで送り届けましょう」
そう手を差し伸べてくるユリウス。
しかしその手が唐突に止まった。
どうしたのだろうか。
そう首をかしげていると――
「……と思いましたが、どうやらもっとふさわしい方がいらっしゃったようですね」
そう彼は微笑み、横へと体をずらした。
まるで誰かに道を譲るかのように。
そうして私の前に現れたのは、
「え?」
「勇者は元の世界へと帰ったのだな」
リュートだった。
彼は涼しい顔で、そこに立っていた。
護衛も連れず、1人で。
「リュ……魔王様!?」
思わず声が裏返る。
ここが魔族領ならまだ分かる。
だがここはエルフの森で、彼はソーマに命を狙われている身。
なのに何故、ここに1人で現れたのか。
混乱してしまうのも仕方がないだろう。
「おやおや」
そんな私を見てユリウスがくすりと笑う。
「わざわざ貴方が迎えに来るだなんて、よほど彼女のことが大切なのですね」
そしてその視線はリュートへと向けられた。
「それだけの働きをしたのだから当然のことだろう?」
リュートは小さく笑みをこぼす。
まるで雑談に興じるように。
「たしかにそうですね。彼女の働きは偉業と呼んでさしつかえない」
「え、えっと……」
一方で、私は気が気ではなかった。
(これ……かなりマズイ状況なんじゃ……)
理由は言うまでもない。
ユリウスとリュート。
人間と魔族の代表として殺し合った2人。
その再会が実現してしまったのだから。
(たしかにユリウスはリュートが生きていることを広める気がないとは言ってたけど)
正直、冷や汗が止まらない。
2人の空気が険悪であれば、むしろ気が楽だったかもしれない。
なのに2人の空気が思いのほか穏やかなせいで、逆に困惑してしまうのだ。
(だけどさすがに直接会っちゃうのは……)
次の瞬間には戦いになるのではないか。
そんな緊張に胃が痛む。
だが、
「悪いが彼女はオレが連れて帰る。構わんだろう?」
「ええ。ここも、人の国も、彼女が平穏に生きることのできる場所とは思えませんし」
リュートの言葉にユリウスはあっさりと頷く。
たしかに彼の言う通り、エレナはもう人の国ではまともに生きられないだろう。
それだけのことをしてしまったし、その所業が世界中に広まってしまっているから。
「あと……ご安心ください。貴方の生存について、ノアに伝えることはありませんから」
「ほう?」
ユリウスの言葉に、リュートが関心を向けた。
「聖女は世界を癒し、魔族は世界を穢すもの。人間はどうにも世界の色が気になって仕方がないようですが……どちらに染まろうとも、我々エルフにとって世界は世界でしかない」
そうユリウスは口にした。
傍観者。
それがエルフ本来の立ち位置。
そう示すように。
「貴方が生きていたとして、個人的には目くじらを立てるほどのことではありませんから」
人間と魔族、どちらかに肩入れすることはない。
「人間が自力で魔王の存在に気付き、ノアが友人として私に声をかけてきたのなら……話は変わりますが」
もしそんなことがあるとしたのなら、それは種族のためではなく友人のため。
正義や大義のためではなく、友情によるものでしかないのだと。
そう彼は口にする。
「それまではエルフらしく、傍観者として世界を見守っていきますよ」
☆
胃に穴が開きそうな緊張感の中。
思いのほかあっさりと私たちはユリウスと別れた。
そうして今、私たちはリュートが作ったワープゲートの中を歩いている。
「…………」
暗い空間。
最初に魔王城を訪れたときも入れてしまうと、これで3回目だろうか。
この異空間とでも表すべき場所はどうにも見慣れないものだ。
そんな空間を私は歩く。
リュートの隣で。
しかしそこに会話はない。
「えっと……アンネローゼさんとリリは……」
気まずさに耐えかね、私はそう問いかけた。
反魔王派が発端となった事件。
その収束を見る余裕もなく、私は魔族領を離れた。
だからリリたちがどうなったのかが分からないのだ。
「アンネローゼは歩ける程度には回復している。リリは……勇者の件に責任を感じているようだったな。戻ったら、すぐに顔を見せてやったほうがいいかもしれんな」
(たしかにリリの立場なら気にしちゃうわよね)
今回、ソーマが覚醒したのは同系統の力を持つ聖女リリとの接触だった。
それは不可抗力であり、避けられるものではなかった。
善意や努力。それらが最悪の形で噛み合った事故でしかないのだ。
とはいえそんな理屈で納得するには、彼女は優しすぎる。
「レイナ」
「え?」
リュートの言葉に立ち止まる。
ここには私と彼しかいない。
だからなのか、あえて彼は私の本当の名前を口にする。
「本来であれば魔王として……大儀であった――とでも言うべきところなのだろうが」
そう告げるリュート。
そして彼は、
「助かった。ありがとう」
――その場でひざまずいた。
魔王が膝をつく。
その意味を理解できないほど馬鹿じゃない。
いや、逆だろうか。
私などでは理解できないほどに重大な意味があることだけが理解できた。
「これは魔王としてではなく、リュートという1人の魔族としての言葉だ」
彼は優しく私の手を取る。
感じる温かさ。
手の甲に、彼の口づけが落ちる。
きっと私の体は、彼にとって飴細工のように脆いものだろう。
それを壊さぬようにと彼がどれほど丁重に私を扱っているのか。
行動の端々からそれが伝わってくる。
「悪いな。人前では、王としての体面がある。ここくらいでしか、オレ自身としての礼を言える場はなかったのだ」
彼はそう笑う。
もしも。
もしもこれが私の傲慢でなかったのなら。
初めて、彼と同じ場所に立てたような気がする。
超然的な存在として描かれていたリュート。
それが実際に会ってからも変わらず、彼は自分とはかけ離れた存在のままだった。
肉体、知性、矜持。そのすべてが私という凡人とは隔絶している。
そう思わされた。
だが今だけは、彼との間にある隔たりを感じない。
彼の言葉を借りるのなら、1人の魔族として彼がここにいるからだろう。
今の私は、王ではなく個人としてのリュートに触れているのだ。
「容易く諦めるつもりはなかったが……お前がいなければオレが殺されていた可能性は高い」
リュートの手が伸びてくる。
その手は掠めるような優しさで頬を撫でた。
「お前が、オレの死の運命を変えたのだ」
「ありがとう」
その言葉に救われてしまう。
ここに至るための痛みも、不安も、恐怖も。
報われたと感じられた。
それは勇者と魔王をめぐる物語に対してだけじゃない。
「この世界に来てくれて」
この世界を訪れることになって。
最初に向けられたのが理不尽な悪意だったとしても。
もしそれが彼と出会うために必要な痛痒であったのなら、
「――あの日、オレの前に現れてくれたことに感謝を」
それで良かったと心から思えるのだ。