「メニュー画面……」
半透明なシステムウインドウ。
管理者。
それが女神を示すのだとしたら。
ここを操作してゆけば勇者召喚を解除する方法が分かるかもしれない。
(ほとんどの文字が選べないわね)
人差し指でスライドすれば、ウインドウに並んでいた文字が流れてゆく。
目が回るほどに大量の文字。
しかしそのほとんどがグレーであり、私が触れても反応を示すことはない。
(私はただのプレイヤーであって、開発者でもないんだからこんなものよね)
もし私が聖魔のオラトリオの開発者であれば、もっと様々な機能に触れることが許されていたのかもしれない。
だが私は数多いプレイヤーの1人でしかない。
女神の端くれとして認められたとしても、許される権限は限られているのだろう。
(まあ少しは期待しちゃったけど)
チートとまではいかなくとも。
もうちょっと皆の役に立てるのではないかと思ったのだが。
さすがにそれは高望みか。
(実行中のタスク……ね。もしかしたらこのあたりに勇者召喚について書かれているかも)
文字の奔流の中から、必要そうなワードを抜粋してゆく。
「エレナさん、なにを……」
私が作業に没頭していると、ソーマの戸惑うような声が聞こえてきた。
「なにって……勇者の召喚について書かれているとしたらこのあたりじゃないかなって」
「?」
私の言葉に、彼は微妙な反応を返す。
首をかしげ不思議そうにしていた。
まるで、
「そこになにかあるんですか?」
「え?」
まるで何も見えていないかのように。
(これって私にしか見えないんだ)
ソーマからすると、私がいきなり虚空で手遊びを始めたわけだ。
困惑するのも仕方がないだろう。
どうやらこのシステムウインドウは私にしか見えないようだ。
(あくまでソーマがいる日本は、聖魔のオラトリオの世界が作られた世界じゃない。だから見えないってことなのかもしれないわね)
曲がりなりにも私が女神として認められた理由。
それはこの異世界――聖魔のオラトリオが作られた世界の住人だからだ。
しかしソーマは違う。
名前は同じ日本でも、彼が住む日本は『聖魔のオラトリオの世界観における日本』でしかない。
だから女神としての権能に触れる権利を持たないのだ。
「なんというか……ここにメニュー画面みたいなものがあるのよ」
私はウインドウがある場所を指で示す。
彼も現代の男子高校生だ。
これでおおよその状況は察してくれるだろう。
「多分、女神としての権限が使えるんだと思う」
私は再びウインドウに視線を落とす。
いちいち確認していたら日が暮れそうなほどに膨大な文量。
少し流し読みしつつ、それでいて概要は把握しながら読み進めてゆく。
「あ……」
そしてついに、私の手が止まった。
「勇者召喚システム……」
ようやく見つけたその文字は――黒。
よかった。
もし選択不可のグレーだったらどうにもならないところだった。
(タップすればいいのかしら……?)
誤作動が起きたらどうしようか。
そんな不安に戦々恐々しつつ私はウインドウをタップした。
「あ……」
(……勇者召喚システムを中断しますか)
はい、いいえ。
そんなシンプルな二択。
同時にそれは、これまでずっと探し求めていた言葉だった。
「エレナさん?」
私の様子が変わったことを察知したのだろう。
ソーマが問いかけてくる。
「…………ソーマ君、見つけたわ」
緊張で喉が渇く。
それでも笑みを浮かべ、私は口を開く。
「ソーマ君を元の世界に帰す方法」
「っ……」
彼が息を呑む。
「これでソーマ君を勇者の責務から解放することができると思う」
「………………」
一拍の沈黙。
「それなら……お願いします」
そしてソーマは胸に手を当て、答えた。
「この世界にいたら、僕は望まないままに多くの人を傷つけてしまう」
少しだけ寂しそうに微笑んで。
「だからエレナさん。僕は帰ります」
それでもしっかりと、私を見つめ返してきた。
「異世界転生モノなら……向こうの世界でも楽しめますから」
こちらの世界にいる限り、ソーマは勇者という役割に縛られてしまう。
そしていつか、望まぬ殺戮に身を落とすこととなってしまう。
だからこの別れは避けられないことなのだ。
「……そうね」
これで最後。
そう思うと寂しいけれど。
勇者と魔王の物語を未完のまま締めくくるにはこれしかないのだ。
「……最後に、少しだけいいですか?」
ソーマがそう切り出した。
その表情は穏やかで、同時に覚悟を感じさせる。
「言うべきかどうかずっと迷っていたんですけど……最後にわがままを言わせてください」
彼が息を吸う。
そして、
「僕、エレナさんのことが好きだったんです」
彼は私の手を握った。
「だから約束してください」
真剣なまなざし。
私たちの視線が交わる。
「無理に連れ去らなくてよかったって思えるくらい、こっちで幸せになるって」
彼は目を逸らさない。
だから、私もしっかりと見つめ返す。
「元の世界に帰ったら確かめることはできないけど、信じますから」
彼の心に不安を残してしまわないように。
「ええ。約束するわ」
それがきっと、私が最後にできることだから。
これくらいしかできないから。
そして、私はウインドウを――
「あっ」
ソーマの声に手が止まる。
「?」
何かあったのだろうか。
なぜか彼は少しだけ恥ずかしそうに頭を掻いている。
「やっぱりあと1つだけ、わがままを言ってもいいですか……?」
「……ふふっ」
彼の言葉に思わず笑みが漏れる。
なにせ、さっきまで完全にあのまま別れる雰囲気だったというのに。
微妙にグダグダになった段取りがおかしく思えたのだ。
「笑わないでくださいよ……」
「ごめんなさい……。それで、どうしたの?」
拗ねたような表情を見せるソーマ。
そんな彼に私は問いかけた。
「有明蒼真」
彼が口にしたのは、彼の本名だった。
封印された記憶からこぼれたソーマという名前じゃない。
ごく普通の男子高校生としてこれまで生きてきて、これからも共に生きていく名前だった。
「最後に一度だけ、僕の本当の名前を呼んでくれませんか」
彼はそう言った。
思えば、そうだったか。
私は彼の本名を知っていた。
だけど、それを呼んだことはなかった。
だから彼はそれを求めた。
「この世界で体験したことを思い出にしてしまえるように」
最後に共通の思い出を残せるようにと。
「分かったわ」
私は自身の首元に手を伸ばす。
彼が名前を思い出として残したように。
私も、彼に一緒にいた証を残したくなったのだ。
するりと音を立て、首元のリボンがほどける。
「あっちの世界でも元気でね。――有明蒼真君」
黒紫のリボンを彼の手に握らせ、私は微笑みかけた。
☆
「っ……!」
僕――ソーマは弾かれるように跳ね起きた。
まるで寝坊したときのような焦りに突き動かされた目覚め。
身を起こした僕の目に飛び込んできたのは久方ぶりの――見慣れた部屋だった。
「ここは……僕の部屋だ」
間違いない。
朝日に照らされたこの部屋は、間違いなく自分のものだ。
魔王城で与えられたものじゃない。
僕が生まれた世界の、僕が生きている家にあった、僕の部屋だ。
「あれは夢だったのか……? なんてベタな反応をしてみたりね」
(分かっている。夢じゃない)
本来なら夢オチをまっさきに疑うべき場面。
だけど、そうじゃないと確信していた。
だって僕の手の中には、彼女に手渡されたリボンが残っていたのだから。
「エレナさん……」
きっとこのリボンは、僕が異世界にいたという証拠になんてなりえないだろう。
だけどそれでいい。
あの日感じたこと、それが嘘じゃないと僕自身が信じていられるのなら。
「それじゃあ……がんばっていこうかな」
ベッドから身を起こす。
もう、あの超人的な身体能力は僕の手中になかった。
「――この世界で」
だから僕は、ごく普通の力で立ち上がる。
有明蒼真。
ごく普通の家庭に生まれ、ごく普通の暮らしをして――異世界に勇者として召喚された。
そんな世界で僕は世界を救うことも、巨悪を討つこともなく。
ただ、失恋をした。
そんな情けない英雄譚。
その続きを語ることはないだろう。