湯気で薄く白んでいる視界。
体を湯に沈める水音だけが鳴る。
広がった波紋は誰に遮られることもなく円形を描いてゆく。
「ふぅ……」
大きく息を吐きだした。
それだけで体の中に溜まった疲労が抜けていくような気がしてくる。
「こっちの大浴場を使うのは初めてね」
現在、私は魔王城にある大浴場にいた。
ちなみに大浴場と言っているものの、サイズとしてはホテルの温泉や銭湯とくらいだろうか。
……充分に大きい。若干、こちらの生活に常識が毒されている気がしてきた。
しかもこれが城内には複数存在しているというのだから驚きだ。
(私の評判を考えたら、あまり悪目立ちしたくなかったから避けていたんだけど)
もしここで誰かとばったり……なんてことになったら気まずい。
いや、気まずいで済めばいいほうだろう。
軽い嫌がらせくらいは確実だっただろう。
そもそも個室にある浴室も充分に豪華だったため、こちらを使用する理由があまりなかったのだ。
それでも今回ここを使うことにしたのは――
「し、失礼しまーす」
ひたひたという濡れた足音。
現れたのはリリだった。
「……ぉぉ」
第一声がそんな間抜けなものであったことは私のせいじゃない。
そう声を大にして言いたい。
彼女の裸体を前にした反応は、大なり小なり似たようなものになるはずだ。
(――大きい)
ゲームのスチルではないのだから謎の光が出張ってくるはずもなく、当然ながら浴室に現れた彼女は裸だった。
だが、その姿は現実離れしていると言わざるを得ない。
傷もシミもない絹の肌。
そして目を引くのは、女性的な起伏に富んだ肢体だ。
あれだけ豊かな胸をしていながら全体でみるとバランスが良いという絶妙な塩梅。
まるで神がオーダーメイドしたかのような美少女と評すべきか。
きっとこの世界の神はかなりセンスが良かったに違いない。
もし私が神であったのなら、ここまでの美少女を世に送り出すことはできなかったことだろう。
背中の白翼もあいまって本物の天使が舞い降りてきたかのような錯覚を覚えてしまう。
(あのスタイルは反則よね)
痩せるには相応の努力が必要で。
しかも痩せたくない場所から痩せる。
それが不動の理だと思っていたのに。
まあ痩せる努力という点に関しては、メイドとして肉体労働をしている彼女は当然のようにこなしているのかもしれないけれど。
「……って、デッキブラシ?」
リリが可愛らしすぎたせいだろうか。
私は遅ればせながら彼女が手にしているものに気が付いた。
「はいっ。最後に入って掃除まで済ませてしまうのが一番効率的ですから」
「それもそうね」
私も浴室の床の掃除なんかは、湯船に浸かったまま済ませていた気がする。
リリのように魔王城で家事をするとなれば、時間を効率的に使うことは必須となるのだろう。
うん。私のずぼらな独り暮らしの知恵と比べるのはちょっと失礼だったかもしれない。
「だから私を待たずに先に出てもらっても――」
「待つわ」
申し訳なさそうなリリの言葉を遮り、私はそう答えた。
「そして一緒に入りましょう?」
私は今日、大浴場を使うことにした理由。
それは彼女とゆっくり話すためだったのだから。
☆
あれから少し経って。
おおよその掃除を終えたリリがお湯へと体を沈めてゆく。
私たちは体を並べ、湯の熱に体を預けた。
さすがに個室の湯船に2人で入ると少し窮屈に感じてしまう。
だから今日は、ここで共に過ごしたかったのだ。
「――大変だったんですね」
温かさに包まれながら、語ったのはこれまでのいきさつ。
ソーマが覚醒してから、ここに私が戻ってくるまでに起きたこと。
それをきちんと話しておきたかったのだ。
女神の試練――本当のエレナとの対面についてだけは話せなかったけれど。
「ふふふ」
「?」
リリがこぼした笑み。
その意味が分からず、私は首をかしげる。
「あ、すみません。私が聖女になったかと思えば、今度はエレナちゃんが女神様になっちゃってビックリだなぁって」
「……たしかに濃い数日間だったわね」
鮮烈な道程だった。
ユリウスと出会い。
そしてソーマと別れ。
――――本当のエレナ=イヴリスと対峙した。
「っ」
「エレナちゃん?」
「な……なんでもないわ」
思わず身震いしてしまった。
それほどに彼女との対面は衝撃的だった。
怖かったし……正直、今でも申し訳ないという気持ちが消えない。
彼女がどんな人物であったとしても、私の存在が正当化されるわけではないのだから。
「信じてもいいのかしら」
「え?」
だからだろう。
自然と私の口からぽつんと言葉が漏れていた。
「私のやったことは間違っていなかったって」
微力ながらも、この世界で私は奔走した。
傲慢な考え方かもしれないが、私の影響で変わったことだって存在すると思う。
「私がいたことで、少しでも良い未来が訪れたんだって」
なら、その変化は正しいものだったのか。
悲劇を減らすものであったのか。
それともただの自己満足だったのか。
そう思ってしまう。
(リュートかソーマのどちらかが死ななければならない運命)
魔王ルート、勇者ルート。
その2つは片方の犠牲なくして成立しないシナリオだった。
(それを変えることはできた)
リュートもソーマも死なない未来を手にできた。
(だけど、だからこそ私にはこの先の出来事なんて想像もできない)
しかしそれは致命的にシナリオが破綻したことを示している。
ここから先、何が起こるのかなんて私には想像もつかない。
もう原作知識で介入する余地なんてないかもしれない。
(それでも、この選択は間違っていなかったって。そう思ってもいいのかしら)
必死に変えた未来の先にさらなる悲劇が待っている。
そんな余計なことをしたのではないかと不安になってしまう。
考えても無駄だと分かっていても不安は拭えない。
「エレナちゃんがどういうことを考えて、どういうことに悩んできたのかは分からないですけど。私は、信じていいと思いますよ」
リリの言葉。笑顔。
それが私を包み込む。
「少なくとも私は、エレナちゃんがここに来てくれて良かったって思っていますよ」
無償の善意とでも言えばいいのだろうか。
手放しで自分を肯定してくれる言葉。
それがありがたい。
「もっと未来のことは分からないんですけど。それはこれから私たちで頑張っていけばいいって話ですし」
それはきっと明快な答えではないのだろう。
漠然とした不安を解決してしまうような一手ではない。
だけど、救われる言葉だった。
「……ありがとう」
(そうよね。シナリオなんて知らないのが普通なんだから)
ここから先に立ちふさがる最高も最悪も。
誰も知らないものなのだ。
誰も確かめようのないものなのだ。
自分の選択が正しかったかなんて、すべてが終わってからしか分からない。
自分の選択が最善だったかなんて、すべてが終わってからも分からないまま。
それが普通なのだ。
(分からないなりに頑張っていくしかないわよね)
少し優遇されていたのが対等な状況になっただけ。
それを嘆くのは筋違いだろう。
(私がここにいたことが、間違いだったと思わないでいい未来のために)
なんというか、リリ=コーラスという少女はやはり主人公なんだなと思ってしまう。
私がこぼした愚痴めいた悩みを拾い上げ、答えをくれた。
その言葉が正しいかなんて関係はない。
それを聞いた私が少しだけ安心できた。
それだけのことだが。それが大事なのだ。
気持ちが沈みそうなときに。
欲しいときに欲しい言葉をくれる。
そんな性分の持ち主だから、きっと彼女はこの世界の主人公になれたのだろう。
そんなことを考えながら横目でリリを盗み見て――
「……浮いてるわね」
「へ?」
いや。場違いだというのは分かっている。
分かってはいるのだが……浮いていた。
大きなものが。
脂肪の塊だから浮かぶというのは都市伝説ではなかったのか。
「あっ!? 羽が生えてたの忘れてました!」
慌てた様子で立ち上がるリリ。
どうやら私の言葉は別の解釈をされてしまったらしい。
彼女が立ち上がると、翼から羽と水滴が飛んだ。
聖女として覚醒したことで天使の翼が生えたせいで、どうにも勝手が変わってしまったらしい。
……彼女が振り返ったとき、翼でビンタされないように気を付けておこう。
「別にそういう意味で言ったわけではなかったのだけど」
「え?」
「……忘れて」
とはいえ誤解されたままのほうが都合が良い。
私は話を流すことにする。
「それにしても、翼が生えるのって大変なの?」
「んー。どうでしょうか」
私の言葉に悩むリリ。
「慣れていないから不便なこともありますけど……これまでは、これがなかったからっていう苦労のほうが多かったので」
「あー……」
リリの返答に、なんともいえない言葉を返してしまう。
(リリは魔族としての特徴がなかったから迫害されてきた)
魔族には必ず角、翼、尻尾のいずれかを有している。
しかしリリにそれはない。
だからこそ彼女は魔族としての身体的特徴を持たない出来損ないの魔族として扱われてきた。
(聖女であるという事実さえ隠してしまえば、今のリリは翼が生えた魔族として通用する容姿になっている)
それが天使のように純白の翼だったとして。
それでも翼であることに変わりはない。
(リリにとってはこっちの姿のほうが周囲と馴染めて楽なのかもしれないわね)
ようやく皆と一緒になれた。
そんな気持ちがあるのかもしれない。
「ああ、でも羽が重いせいで前からヒドかった肩こりがもっとヒドくなっちゃんたんですよねぇ」
そんなリリの呑気な声。
心が急速に冷えるのを感じた。
「…………へぇ」
口から漏れたのは想像以上に無機質な声だった。
(あんな立派ものを持っていたら、さぞかし肩もこるんでしょうね……なんて)
以前から肩こりがひどかった理由はあえて聞かなかった。