リュートの執務室を離れてから。
意気揚々と準備を始めたアンネローゼと別れ、私は私室に戻っていた。
最初は場違い感が否めなかったこの場所も、最近は馴染めている。
「はぁ……」
そんなため息が漏れるのも、ここが落ち着ける空間になった証なのかもしれない。
「行くとは言ったものの……」
はたして私の判断は正しかったのだろうか。
彼の期待に応えられるのならと頷いたけれど。
もしかしたら無理にでも断るべきだったのではないかと思ってしまう。
「本当に大丈夫かしら……?」
もはや原作なんて崩壊している。
私が持つ原作知識はもはや参考にならない。
女神としての力もあるが、それも荒事に不向きなもの。
いざというときにリュートの助けになるものだとは思えない。
(どう考えても、私って役立たずじゃ……)
考えるほどそう思ってしまう。
はたして彼は、そんな私にどんな期待を向けてくれていたのだろうか。
自分で自分に期待できていないのに。
「どうかされたんですか?」
そんなことを考えていると、リリが心配そうにこちらを見ていた。
私は彼女が煎れてくれた紅茶を一口飲んだ。
伝わる熱と香りで心が落ち着く。
口内が湿ったおかげが、少しだけ口が軽くなった気がした。
「ちょっとね――」
まだ聖女ノアとの話し合いについての情報がどのように取り扱われるのかは分からない。
だから、私の口から聞いたことはすべて秘密であると前置きをしてから。
私は先程リュートからされた話をリリに説明した。
「……なるほど」
神妙に頷くリリ。
聖女ノアとの会談。
それは魔族の未来を占う上で重要な分岐点だ。
幼少期からここで生きてきた彼女にとって、その重みは私が感じているものよりも大きなものだろう。
「すごいですねっ」
しかし、すぐに彼女は笑顔を浮かべる。
満面の笑みで、しかも祝福の言葉を口にした。
「え?」
「だって魔王様は、考えがあってエレナちゃんを選んだってことですよね!?」
「え……まあ、そうなのかしら」
リリの言葉に戸惑いながらもそう答える。
リュートはたしかに考えがあると言った。
私にはまったく予想がつかないけれど。
ともかく、その言葉がただのハッタリだったとは思えない。
「だとしたら、それだけ魔王様が期待しているってことじゃないですか」
……そう思ってもいいのだろうか。
彼の意図なんて私では読み解けないけれど。
そんな私でも、彼の期待に応えられる何かを持っていたのだと。
「だからやっぱり、エレナちゃんはすごいと思います」
「……」
やはり彼女は主人公ということか。
それが無根拠な激励だったとしても、受ける身としてはなんとかなりそうな気がしてくるのだ。
主人公ゆえのカリスマか。
そのカリスマがあるからこそ主人公としての役割をこの世界で果たすことになったのか。
それは分からないけれど。
やはり彼女もまた特別な側の存在なのだろう。
――はたして私は、そんな彼女たちと同じ場所に立てるのか。
(正直、私はリュートがどういう考えで私を選んだのかが分からない)
戦闘力でないことだけはたしかだ。
人望は……本来のエレナを思えば壊滅的だろう。
知識が一番可能性が高いけれど、それもこの期に及んで有効に活かせるのかは不鮮明だ。
(私になにかをして欲しいのか。私がいることでなにかが起きるのか)
それは分からない。
「そうよね」
だが、それを気にしても仕方がない。
いっそリュートが私に何を期待しているのかなんて関係がない。
私は私にできることをやるだけだ。
「ありがとうリリ。がんばってみるわ」
「エレナちゃんならきっと大丈夫ですよっ」
そう元気づけてくれるリリ。
当然のごとく今でも不安感は胸でくすぶっている。
しかし考えるべきことは見え始めていた。
(このままでは、ほぼ間違いなく魔族と人間の戦争になる)
ここ最近、聖王国側からの攻撃がなかった理由は2つ。
魔王リュートの討伐により当面の危機が去っていたこと。
聖女ノアが、聖女としての責務より王女としての責務を優先していたこと。
しかしリュートの生存が明らかになったことで、ノアは王女としてではなく聖女として動かなければならなくなった。
そうして今に至る。
(聖女ノアは、魔族に対する最大の敵であり、人間にとって最大の希望)
聖女の力がなければ、基本的に人間は魔族に勝てない。
少なくとも、人類側は国が傾きかねないほどの被害を受けることとなる。
人間が攻勢に出ることができるのは、聖女ノアという魔族に対する強力な切り札があるからなのだ。
(逆に言えば、ノアがその気にならなければ人間は魔族を相手に戦争は起こせない)
ノア、アレン、ロイ、ユリウス。
その4人で人類は魔王リュートを討った。
だが現実として、一番大きな役割を果たしたのはノアだ。
魔王を倒すうえで、彼女は代用不可能な存在なのだ。
彼女が同意しなければ、人間は魔族に戦争は起こせない。
(ノアに会えたのなら……戦争を回避できるかもしれない)
大局的に見れば人間と魔族の争い。
しかしさらに紐解いていけば、この戦いの鍵を握るのはノア1人。
(本当にそれがリュートが期待していることなのかは分からない)
いくらノアがエレナに情を残していたとしても。
そのために判断を誤りはしないだろう。
私情を殺してでも、彼女は大衆を優先するはず。
ゆえにリュートが『そういう役割』を私に求めていたのかは分からない。
(だからこれは、私自身がやりたいこと)
でも、私はこれしかないと思っていた。
悲劇を避けるには、もはやこの一手しかない。
(ノアを説得して――戦争を止める)