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第92話

「「ここで働かせてくださいっ」」

(まさかこの歳で初めての土下座を経験することになるなんて……)

 私はしみじみとそう思った。

 額に木製の床の固さを感じながら。

「働きたい……か」

 私たちが土下座をしている相手――中年男性が面倒そうにそう呟いた。

 ――あれから私たちは程なくして近くの町フォレスティアへと辿り着いていた。

 魔族領に近いフォレスティアはあまり住民が多くはない。

 そうなれば働き口も少ないわけで。

 日銭が必要な私たちとしては、土下座をしてでもここで働かなければならないというわけなのだ。

「お前はメイドをしていたらしいけど、そっちの嬢ちゃんは仕事なんてできるのか? 詳しくは聞かないけど、付き人がいるってことは……訳アリなんだろ?」

 男性はそう問いかけてくる。

 ここは飲食店だ。

 メイド服を着ているリリが戦力として数えられるのは必然かもしれない。

 だが問題は私だ。

 青白い肌に、身綺麗なドレス。

 少なくとも肉体労働ができる人間には見えないことだろう。

(わ……訳アリと言えばかなりの訳アリだけど)

 一応ながら家事は最低限できる。

 ただ私が『エレナ=イヴリス』であるという事実そのものが特大の爆弾だ。

 リュートからもらった魔道具で容姿を偽っているとはいえ訳アリであることに間違いはない。

「箱入りのお嬢さんがまともに仕事をできるとは思えんがな……」

(箱入りのお嬢さんどころか、アラサーに足を踏み入れた庶民なんです……)

 たしかに魔道具の効果によって、本来の年齢よりは若い頃の姿に変装しているけれど。

 それでもこの世界基準では成人している年齢のはずなのだ。

 まさか日本人が幼く見られてしまうというテンプレをここで経験することになるとは。

「お願いしますっ」

 とはいえここで引くわけにもいかないわけで。

 ――たしかに当面の日銭というだけなら、リリが働くだけでも賄えるのかもしれない。

 ただそうなったら私が申し訳なくて死んでしまう。

 2人旅で自分だけニートという状況に耐えられる気がしないのだ。

「……まあいいか。どうせこれから忙しくなる時期なんだ。人手があるに越したことはないか……」

 男性は諦めたように頭を掻く。

「それじゃあ……!」

「言っておくが高い給金は出せないし、邪魔になるようだったら即刻追い出すからな」

「「はいっ」」

 こうして私たちの新生活が幕開けた。

 やかましいほどに声が響く店内。

 この店は夜になると酒を提供するということもあり、店内がさわがしくなるのだ。

(リュートから魔道具をもらっていて良かったわね。エレナのままだったら絶対に雇ってもらえなかっただろうし)

 今、私は元の姿へと戻っている。

 エレナの顔を知っている人間がいつ現れるのかが分からないからだ。

 人前といわず、基本的にこれからはこちらの姿ですごすことになるのだろう。

(欠点としては、ドレスを着ている自分にすさまじい違和感があることかしら)

 労働中は給仕のために渡された服とエプロンがある。

 しかし普段着は最初に着ていたドレスしか持っていないのだ。

 日本人な顔立ちにあのドレスはギャップがひどく、どうにもいたたまれない気持ちになってしまうのだ。

「ほら、さっさとこれ持って行ってくれ」

「はいっ」

 私は店長からトレイを受け取り、客へと運んでゆく。

 そうして机に料理を並べている過程で、自然と会話が耳に入ってくる。

「魔王が死んで、稼ぎが減ってたから運が良かったぜ」

「魔族領に入れば、魔族を狩る機会も増えるんだけどな」

「馬鹿。そんなことしてたら命がいくつあっても足りねぇよ」

「そうそう。攻めてきた魔族を殺すだけで充分稼げるんだからよ」

 下品な話声。

 その内容に思わず眉をひそめてしまいそうになる。

(騎士……じゃなくて傭兵かしら)

 客の姿を軽く盗み見る。

 剣や鎧、そのほかにも様々な武器を持っている人がいる。

 男女問わず、そこに私のようなひ弱な人間はいない。

 装備品に統一感のようなものがないことから考えると、おそらく彼らは傭兵のような仕事をしているのだろう。

(忙しくなる時期ってそういう意味だったのね)

 私を雇うときに店長が言っていた言葉の真意がようやく分かった。

 これから彼らのような客が増えることを見越しての言葉だったのだ。

(ここは魔族領に一番近い町――ワーエッジに近い。多分、ワーエッジで傭兵をしようとしているのよね)

 魔族領に一番近い町は、聖女ノアと会談を行ったワーエッジ。

 そしてここは、聖王国からワーエッジへと向かう道中にある町なのだ。

 ゆえに魔族との戦いに向けて動き始めた傭兵がこの店を利用するというわけだ。

(リュートたちは大丈夫かしら……)

 いくらリュートが弱体化しているとはいっても、そこらの人間が太刀打ちできるような実力ではない。

 とはいえこうやって参戦する戦力の規模が増えるほど双方の陣営に甚大な被害が出てしまうわけで。

胸の奥で不安がくすぶる。

「おいッ。さっさと次、取りに来い!」

「は、はいっ! すみませんっ」

 とはいえ今の私たちには悲しいほどに余裕がない。

 私は思考を打ち切って労働へと戻っていった。



 私はこの世界の法律をよく知らない。

 だが、労働基準法が存在していないことはほぼ確信していた。

 要するに、私たちが仕事を終えたのは深夜になってからのことだったわけだ。

 この調子で毎日のように働いたら過労死が見えてきそうだ。

「つ……疲れた」

 私は服を脱ぐこともできずにベッドへと倒れ込んだ。

 ここは私が働いている店の2階。

 元々従業員に貸していた部屋らしく、私たちはその部屋に住まわせてもらっていた。

 もちろん家賃は給料から引かれている。

 店長が自己申告していた通りここは低賃金らしく、引かれるものを引かれたあとの給料は雀の涙だった。

 これでは魔王城で飲んでいた紅茶一杯分にあたる茶葉さえ手に入らないことだろう。

(久しぶりの労働がキツイ……)

 こちらの世界に来てから、私は仕事らしい仕事をしていない。

 そのせいで労働への耐性が落ちているというか、以前よりさらに疲れるような気がする。

「エレナちゃんって元は貴族として暮らしていたんですよね? だったら大変なのは仕方がないですよ。むしろ、経験があるのかと思うくらいスムーズに働いていたじゃないですかっ」

 そう励ましてくれているリリは元気そうだ。

 魔王城でメイドとして奔走していた彼女にとって、1つの飲食店を回すくらいは大したことがないのだろう。

 ゲーム内では平凡な少女みたいな雰囲気を出しておきながら、実際に対面してみるとここまで高スペック女子だったとは。

「そ……そう。ありがとう」

 私は疲れた笑みを返す。

「あ、今はエリーちゃんでしたねっ」

「……そうだったわね」

(元々エレナも自分の名前じゃないのに、さらに偽名って……エレナの悪名を考えると仕方がないけれど)

 私は魔道具で姿を変えてすごしている。

 しかし万が一ということもある。

 だから念のため、私はエレナという名前を使わないようにしていた。

 その偽名がエリートいうわけだ。

 黒崎玲奈の名前を使わなかったのは……どうしてなのだろうか。

 明瞭な意味があるわけではない。

 あえて言うのであれば、リュートとの間だけで共有していた秘密を無差別に広めたくなかったというか。

 自分の本来の名前であるという事実以上の意味を感じてしまっていたというか。

 そんな非合理な理由だ。

「とにかく今日は寝ましょうっ。明日も朝からお仕事ですからっ」

「そうね」

 朝から深夜まで。

 なかなかにハードな労働時間がこれからも続いていくのだ。

 少なくとも慣れるまでは体力を温存しておきたい。

 さっさと寝て少しでも体力を回復させておくべきだろう。

「…………」

 眠るため姿勢を整えたとき。

 ふと指先がネックレスに触れた。

(これ……リュートからもらった)

 このネックレスは魔道具だ。

 たしか縁結びの呪いが込められているのだったか。

(これがあれば、リュートと連絡が取れる)

 これがあれば離れているリュートに対しても、呪術を用いて通話ができる。

 おそらくここからでも彼と話せる代物だ。

(話すって……なにを話せばいいのよ)

 頭に浮かんだ誘惑を断ち切る。

 リュートの声を聞きたいと、ほんの一瞬だけ考えてしまった自分を恥じる。

 逃がしてもらった身でありながら、自分の不安を拭う手助けまでしてもらおうというのか。

 そう思うと、この魔道具を使う気にはなれなかった。

(離れていても話すことのできる魔道具。姿を偽ることができる魔道具。もしかするとリュートは、最初からこうなることを見越して準備をしていたのかしら)

 実際に、姿を偽る魔道具がなければ今の生活は成り立たなかった。

 まるでこの未来を見越していたかのように。

 ……なんだか彼ならばありえそうだと思ってしまう。

(今はまだ、なにを話せばいいのか分からない)

 話したいことがないわけではない。

 いや、話したい。

 だがそれはきっと逃げだ。

 自分の中にある不安をどうにかやわらげたいだけの行為だ。

 そんなことのため、彼の手を煩わせるわけにもいかない。

(このまま漫然と日銭を稼いで。すべてを見過ごしていくのかしら)

 ここで働き続ければ、当面の生活は何とかなるだろう。

 楽はできなくとも生きてはいける。

(私はどうすればいいの?)

 だが、不安は消えなかった。

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