用務員の足音が廊下に響くたび、ロッカーの中で息を潜める俺たちの緊張が高まる。
狭い掃除ロッカーに押し込まれたせいで、雷の赤い髪が肩に触れ、独特の甘い香りが微かに鼻をくすぐった。
「やるじゃない、私を追い込むなんて」
雷が耳元で囁き、小さく笑った。
その余裕たっぷりの態度に、俺は心底呆れながらも声を低くする。
「言ってる場合か!」
「だって、これも学校生活の醍醐味でしょ?」
「普通は夜中に忍び込んだりしないんだよ!」
俺が怒ると、雷はますます楽しそうに口元を抑える。
ロッカー越しに用務員の気配が近づいてくるたび、心臓が跳ね上がった。
「誰かいた気がするんだよなぁ」
用務員がぼやく声に、雷が小声で提案してきた。
「ねえ、大声で驚かせて一気に逃げるってどう?」
「そんなの捕まるに決まってるだろ!」
「じゃあ、案内人さん。さっさと名案を出しなさいよね?」
完全にこの状況を楽しんでいる雷に、俺は頭を抱えたくなった。
だが、幸いにも用務員は気のせいだと思ったのか、足音を遠ざけていく。
息をつく俺を横目に、雷がぼそりと呟いた。
「なんだ、つまんない。もっとドキドキする展開かと思ったのに」
「お前なぁ……まあいい、とにかく出るぞ」
用務員が去ったあとの校舎は、静寂に包まれていた。
窓から差し込む月明かりが淡い筋を描き、廊下に影と光のコントラストを生み出している。
「さて、次はどこに行こうかしら♪」
彼女の無邪気な笑顔に、俺は不意に妹の葉奈の姿を重ねた。
葉奈もこんなふうに笑ってくれるのだろうか――いや、病室ではそんな顔を見たことはなかった。
「なあ、お前、いくつなんだ?」
俺が尋ねると、雷は不思議そうに首を傾げながら答える。
「14歳よ」
その言葉に、胸の奥が少し締めつけられる。妹の葉奈は12歳。戦場で散りゆく命がこの年齢に集中している現実に、俺はただ無力感を抱いた。
「どうして年齢なんか訊くの?」
雷が微笑みながら尋ねてきた。俺はしばらく答えを探し、ようやく口を開く。
「……妹がいるんだ。葉奈って名前で、今年12歳になる」 俺がつぶやくと、雷の顔が少しだけ険しくなった。
その瞳には、いつもの高飛車な輝きはなく、何かを測るような真剣さが宿っていた。
「ねえ、妹さんになにかあった?」
雷が短く問いかける。
鋭いな、と俺は思った。
「実は、自宅のゲーム機から、なぜかSENETにログインしてしまったらしい」
俺は胸の奥が苦しくなるのを感じながら話し始めた。
雷は黙って耳を傾けている。
「美月さんから聞いたんだ。家にあったゲーム機が、何らかの原因でSENETに接続されてたって。それで、葉奈は……」
その続きを言うのが苦しかった。だが、雷の視線は鋭く、俺の口を開かせた。
「葉奈は……SENET内で命を落とした。今は眠ったままだ。目を覚ますには、このゲームをクリアするしかない」
雷の表情に変化はなかったが、その瞳の奥で何かが動いたように見えた。
「……なるほど。SENETの中で死ぬと現実でも目覚められない。そういうことね」
「そうだ。それだけじゃない。なぜゲーム機がSENETに繋がったのかも、俺たちにはわからない。美月さんも原因は特定できていないらしい。ただ……」
俺は、葉奈と共有していたゲームアカウントのことを思い出し、拳を強く握りしめた。
「たぶん、俺たちが一緒にアカウントを使ってたから、葉奈まで巻き込まれたんだと思う。俺のせいで……」
雷はふっと息を吐き、少しだけ体を傾けた。
「……UAEの支部で、似たような事例があったらしいわ」 雷の声は冷静だったが、どこか慰めるような響きも感じられた。
「本当か?」
「ええ。そして、その子の意識データがゲーム世界に眠っていることが確認されたの。だから、まだ死んでない。あなたの妹さんも、同じように助かる可能性はある。極秘情報だけど、そういう前例があるってことを信じなさい」
雷の言葉に、胸の奥で少しだけ希望が灯るのを感じた。
「……ありがとう」
「礼を言うのはまだ早いわよ。私たちが戦って、このゲームをクリアしないと妹さんは戻れないんだから」
「ああ、そうだな」
「そうよ。それに、あなたの妹さんだけじゃない。矢神臣永と、散っていった仲間たちも、全員救うんだから!」
そう言いながら、雷は小さく笑った。その笑顔には、ほんの少しだけ温かさが含まれているように見えた。 雷との会話が一区切りついたとき、廊下の奥から再び足音が響いた。
「やばい、また来たぞ!」
俺は雷の手を引き、廊下を駆け抜けた。
月明かりに照らされた廊下を走るたびに、彼女が小さく笑い声を漏らす。
「ねえ案内人さん、意外と頼りになるのね」
「今は褒めるな!」
息を切らしながらも、ようやく校舎の出口が見えた。
二人して門を飛び越え、ようやく安全地帯にたどり着く。
「ふぅ、何とか脱出できたな……」
俺が額の汗をぬぐうと、雷がニヤリと笑った。
「ふふっ、まるで映画みたいだったわね」
「あのな……お前のせいでこんなことになったんだぞ?」
雷は軽く肩をすくめ、明るく答えた。
「細かいことは気にしないの。さて、学校はもう十分楽しんだから、次は横須賀に行きましょうか」
「横須賀? こんな明け方にか?」
「もちろん。結構大きい街なんでしょ?目いっぱい遊ぶなら、早くいかないと!」
「たしかに一理あるけど……」
「それに学校といえばサボり! せっかく学校に来たんだから、サボらなきゃ損よ! さ、案内人さん。ついてきなさい!」
「はいはい……」
俺は呆れつつも、どこか浮ついた足取りで、彼女の後についていくのだった。