夜の渓谷に、風の音だけが響いていた。
先へ進んだ灰島賢たちの気配が遠のき、静寂が広がる。
広目と向き合ったまま、僕――
「さて、どこから始めようか」
広目が岩壁に張り付きながら、楽しげに笑う。
「お前、本当に"俺が一番倒しやすい"と思ったんだよな?」
「うん」
僕はあっさりと答えた。
「君の戦闘スタイルは、敵のデータを蓄積して戦闘力を上げるタイプ。でも、データが揃う前に倒せば意味がないよね?」
「……ククッ……面白ぇ」
広目は巻物を広げ、筆を握る。
「じゃあ、試してみるか? 俺が"戦況を記録するだけのデータ収集屋"なのか、それとも――」
筆を走らせた瞬間、周囲の空間が歪んだ。
「記されし運命の檻よ、我が敵を縛れ」
ズシャァァァ!!
地面と空中に無数の呪糸が張り巡らされ、一瞬で渓谷全体が蜘蛛の巣のような領域へと変貌した。
「お前が、ここから"出られない"ってことをな」
僕は周囲を見回す。
透明に近いが、僅かに空間の歪みが見える。
細いが強靭な糸が張り巡らされており、軽く触れただけで捕らえられそうな気配があった。
「なるほど、これが君の戦場ってわけだね」
「察しがいいな」
広目は岩壁の上から見下ろしながら、不敵な笑みを浮かべた。
「この呪糸は、"敵の動きを制限するための罠"じゃない。"俺にとって都合のいい情報を蓄積するための布陣"だ」
「……?」
「お前がこの中でどれだけ動いたか、どんな技を使ったか、すべてこの糸が記録し、俺にフィードバックする」
広目は筆を回しながら言う。
「お前が技を出せば出すほど、俺がそれを学習し、動きを先読みできるようになる――そういう仕組みだ」
「ふーん……つまり、"先に倒せば"問題ないってことだね」
僕は淡々とした口調で言った。
「言っただろ? 君が"最も早く倒せる"敵だって」
「……」
広目の笑みが少し引きつった。
「調子に乗るなよ」
筆が走る。
「第一の陣――幻影蜘蛛の絆」
シュバァッ!!
僕の足元に黒い呪符が浮かび上がり、無数の糸が一瞬で絡みついた。
「ほう、かかったな」
広目は薄笑いを浮かべる。
「見えてても避けられねぇんだよ。これが"記された運命"の檻ってやつだ」
「……なるほど」
僕は腕や足に絡みつく糸をじっと見つめた。
そして――
「……で?」
「……は?」
「これで、僕の動きが止まると思った?」
スパァン!!
次の瞬間、双閃刀が閃き、全ての糸が一瞬で切り払われた。
「なっ……!?」
広目が驚愕する。
「"張られた罠に引っかかったふりをする"のは基本だよね?」
僕はふわりと微笑んだ。
「それで、次は何をする?」
「……ハッ」
広目は息を吐き、唇を舐めた。
「いいねぇ……これは、思った以上に楽しめそうだ」
「僕は別に楽しむつもりはないよ」
「そんなつれねぇこと言うなよ」
広目は再び筆を走らせる。
「第二の陣――万象封縛」
ズバァァァ!!
今度は無数の呪符が宙に舞い、広目の周囲に六角形の陣が浮かび上がった。
「この戦いは、もう俺の支配下だ」
広目は腕を広げる。
「ここからは、お前の技は俺に記録され、動きはすべて先読みされる」
「……うん」
僕は双閃刀を軽く回しながら、淡々と答えた。
「で?」
「……は?」
「だから、君は"記録する"のが戦闘スタイルなんだよね?」
僕は呆れたように首を傾げた。
「それってつまり……"記録する前に倒せば関係ない"ってことじゃない?」
「……」
広目の眉がピクリと動いた。
「言っただろ? "最も早く倒せる敵"って」
僕の双閃刀が閃く。
「じゃあ、そろそろ終わらせようか」
ヒュン!!
僕の姿が一瞬で消えた。
「……!!」
広目が慌てて筆を走らせるが――
ズバァァッ!!
広目の肩口に、一閃が走る。
「ぐっ……!!」
「"記録"は便利だけど、"記録する前に圧倒的な速度で攻める"のが、君の最大の弱点だよね?」
僕は静かに言った。
「さて……"記録する暇"、ある?」
「この……っ……!」
広目が顔を歪める。
「はっ、いいぜ……! やっと戦う価値が出てきた!」
彼は呪符を大量に空へと放り投げた。
「ここからが、本番だ……!」
ズシャァァァ!!
空間全体が、真っ黒な糸で埋め尽くされる。
「この領域に入った以上、お前はもう俺の掌の上だ!」
「そっか」
僕は肩をすくめ、静かに双閃刀を構え直す。
「じゃあ、僕も"本気で終わらせる"よ」
* * * * *
――同時刻。
意識が揺れる。
身体が冷たい。
重い瞼をゆっくりと開けると、視界に映ったのは黒い天井だった。
天井……? いや、違う。
これは――岩だ。
薄暗い空間。ここは……洞窟……?
「っ……くそ……」
喉が渇いている。全身が軋むように痛い。
腕を動かそうとすると、手首に硬い感触があった。
「……なんだ、これ……」
手錠……か?
いや、それよりも重い。
首も、何か冷たい金属で縛られている。
まるで――檻の中にいるような気分だ。
「ようやく目が覚めた?」
声がした。
どこか聞き覚えのある、気怠げで、それでいて冷たい声。
俺はゆっくりと顔を上げた。
驚きと混乱が、一気に押し寄せる。
影が、こちらをじっと見下ろしていた。