――灰島賢がガドラに出逢った頃。
日本支部ブリーフィングルームには、再編成を告げる重苦しい空気が漂っていた。
「灰島賢は南アフリカサーバーに行ったが、君たちも各地に分かれてもらう」
龍崎の言葉に、室内の空気が一瞬だけ凍りついた。 だが、驚きの声は上がらなかった。
むしろ全員が、どこかでそれを“待っていた”ような表情だった。
「これから君たちが直面するのは、従来の実戦をはるかに超える特殊な領域だ。 SENETの本質に触れた者として、君たちにはそれに対処する力が必要になる」
言葉は平坦だが、その裏にある危機感は痛いほど伝わってきた。
「日本支部メンバーは、今よりさらに強化された実践訓練を受けることになる。 渡航先、訓練内容、すべては君たちの適性と戦闘履歴に基づいている」
数秒の沈黙のあと、龍崎は静かに言葉を継いだ。
「この修行は命令ではない。だが、行く者は覚悟を決めろ」
「当然、行きます」
秋月一馬が、即答した。 背中には未だ癒えぬ傷がある。 だが、その瞳には迷いはなかった。
「俺には、まだ背負いきれてねぇもんがある。……背負えるようになるために、やるしかねぇ」
その隣で、三輪蓮は静かに眼鏡を押し上げた。
「分析するだけの役割は、もう終わりだ。僕自身が、もっと戦えるようになる」
遠野美雪が、少し不安げに天草を見た。 天草はすぐに、頷いて言った。
「……強くなりましょう」
言葉は少なかったが、その意思は誰よりも強かった。
「うん」と、遠野も頷いた。
それぞれが、それぞれの覚悟を、静かに胸に刻んだ。
* * *
――EU支部サーバー・アルプス山脈訓練区画
仮想空間とは思えないほどの密度を持った森が広がっていた。雪解けの冷気が肌を刺し、樹木は風もなく静かに立ち並ぶ。この場所は、現実のアルプスを再現したEU支部の戦闘演習領域。剣士のために特化された模擬空間だ。
岩肌はごつごつと隆起し、踏み込むたびにブーツが雪に沈む。上空には雲一つない晴天が広がっていたが、空気は凍てつくように冷たい。雪を踏みしめる音だけが、静寂を引き裂いていた。
その中央、雪に覆われた石畳の広場に一人の剣士が立っていた。イーダ・ニールセン。氷を纏う風の剣士であり、EU支部を代表する切り込み役。
「……来たな」
木立を抜け、姿を見せたのは三輪蓮。マントの裾に霜をまとわせながら、静かに一礼する。
「久しぶりだね、三輪蓮」
「こちらこそ」
短い挨拶を交わしながら、二人は互いの武器を見やる。
エレクトロブレードと、風を纏う曲刀。
「ここでは、剣しか使わせない。他のスキルは、一切封印」
「構わない。むしろ望むところだ」
二人は静かに立ち位置を取り、間合いを読む。
風が走る。 そして、剣戟の音が静寂を破った。
幾度も交錯する刃。三輪の分析力と、イーダの直感的な剣術。
それはまるで、数式と本能のぶつかり合いだった。
「遅い。思考に、動きが追いついてない」
「君の反応速度がおかしいだけだ」
そんな言葉を交わしながら、彼らの技は研ぎ澄まされていく。
* * *
――フィンランド支部サーバー・氷の荒野訓練領域
地平の果てまで続く雪原。吹きすさぶ風はデータではなく“痛覚”を伴い、仮想空間の感覚を超えて現実のようだった。
白銀の世界には、生命の気配すらない。遠くに見える氷壁は鋭利に反射し、踏み出すたびに足元が砕けそうなほど脆く冷たい。気温表示は氷点下二十度を指しているが、それ以上の寒さが骨の奥まで沁みた。
そこに現れたのは、全身を重装ハンマーで包んだ巨躯の女。サーラ・ヴァンハラ。
「よお! 少し細くなったか、秋月ぃ」
その一言に、秋月一馬の眉間が跳ねた。
「細くなってねえよ」
「ほーん。じゃ、最初からそんなひょろかったのか」
「なに?」
「くくっ、まあいいや。お前みたいなタイプが一番いい。壊すにも、育てるにも向いてる」
サーラは笑いながら、氷の上に巨大なハンマーを振り下ろす。衝撃で雪が舞い、地が揺れた。
「まずは、氷河を素手で砕け。話はそれからだ」
「やってやるよ!!」
叫びと共に拳を構える秋月。彼の中で、なにかが確かに変わり始めていた。
* * *
――ノルウェー支部サーバー・極北氷原訓練領域
氷点下三十度の仮想空間。一面の氷原に立つのは、白銀の髪をなびかせた氷の魔術士。フレイヤ・リンドストロム。
一歩踏み出すだけで靴裏が軋み、空気は張りつめた氷の膜のように重かった。吹雪は止んでいたが、地平の彼方まで続く白い世界は、視界と感情を等しく凍らせる。
その前に、天草結衣、浮水彪、遠野美雪の三人が立ち並ぶ。
「この場所は、体温も、感情も凍らせる。けれど、それを越えた先にしか“真実の意志”は存在しない」
「意志……」
天草が呟く。彼女の拳は震えていたが、瞳は強かった。
「私はあなたたちに、“凍結状態”に近い精神領域まで入り込んでもらう。恐怖も、怒りも、すべてを凍らせ、透徹な意志だけで戦えるように」
ふぅ、とフレイヤが息を吐く。きらきらと氷粒が舞った。
「行くわよ。心を氷に変える覚悟、ある?」
* * *
それぞれが、それぞれの場所で限界に挑んでいた。
剣を磨き、拳を鍛え、意志を冷やし、己を超えてゆく。