コラシーの下層で最も賑わう場所といえば、誰しもがここを指さすだろう。
蒸気管を繋がれた汽車。大量に並ぶ貨物と、それを右へ左へ動かすスチーマン。薄汚れた人の流れ。
中層の旅客駅より遥かに煤けた貨物駅。その中でも特に薄暗い一角に俺は足を向けていた。
並ぶ大扉はほとんどが閉じられているが、どれもこれも何かしらの企業名が書かれている。
その最奥に近い場所に、なんとも不似合な忙しなく動き回る人影が幾つも見えた。
「アパルサライナーは無事、と」
大扉から覗いた特徴的な先端部。
潜水艦に車輪がついたような見た目のアパルサライナーは、コラシーのピットに戻されていた。
あれだけの戦闘をしたのだ。どの程度被弾したかはともかく、総点検を行わねばならないのは間違いないと踏んでいたが、俺の読みは当たっていたらしい。
大股に近づいてゆけば、程なく気配に気づいたのだろう。何かしらの木箱を蒸気ターレットで運んでいた、気弱そうな眼鏡と目が合った。
「えっ、ひゅ、ヒュージさん!? 捕まっていたんじゃ……」
「よぉサミュエル、元気そうじゃねぇか。あのチビスケは居る――カッ!?」
見知ったアパルサライナーの操縦手兼変人生物学者相手に、ひらりと手を挙げて挨拶しようとした矢先である。
それはそれは小さな影が俺の懐に飛び込んできて、直後に腹へ凄まじい衝撃が走った。
油断していたとはいえ、不覚である。
「誰がチビスケだぁ! 心配させやがって!」
ガァと吠えるタムの声。腹を押さえて下がった鼻先に、細い指をビシリと突きつけるおまけ付きだ。
この小さな体のどこに、俺を揺さぶるほどの力があるのかは気になるが、まぁそれよりも。
「いきなりみぞおちに頭突きはやめろ……元気そうだな」
「おかげさんでね! オリゾンテも暫く開店休業みたいだし、ウチは今全力で物資売りさばいてるとこさ」
怒り顔がすぐさまニヤリと崩れる。
どうやら蒸気ターレットで運び出されていた貨物は、売り先の決まった物資らしい。
次々に運び出されていくところを見るに、お高い石炭だのアンモニアだのの売れ行きは好調、といったところか。
「なら、報酬は期待して良さそうだな?」
「もっちろん、準備してあるよ。こっちも信用商売だからねっ」
「あぁ悪ぃんだが――」
誰かを呼び止めようと手を挙げたかけたタムに待ったをかける。帽子から生える獣耳のような装飾が、不思議そうにふにゃりと揺れた。
「そいつは俺じゃなく、リヴィに渡してやってくれ。これで足りてくれりゃいいが」
「んぇ? そんなにオールドディガーの修理費高いの?」
「色々と入用でな。それより、サテンの足取りを知らねぇか?」
唇をへの字に曲げつつ話題も反らす。別に俺は冷え行く己の財布に、わざわざ同情して欲しい訳ではないのだ。
しかし、サテンの名前にタムは先ほどと逆に首を捻り、渋面を作ってうーんと唸った。
「それはアタシ様も知りたいくらいなんだけど……メルぅー?」
「呼んだかしらン? あらヒュージちゃん、お久しぶり」
寄ってきた大柄かつゴージャスなオネエに、俺は1歩後ずさりそうになるのをギリギリ堪える。くねる筋肉質なボデーは、相変わらず凄まじい迫力だ。
「サテンのことなんだけどさ。メル何か知らない?」
「さぁねェ。上層の保安局周りが騒がしい、みたいな噂はオトモダチから聞くけどォ」
「……なんでお前が上の話なんか知ってんだ」
ここは下層の貨物駅。中層の市民が出入りすることはままあるとしても、上層に住まう金持ち共が直接関わることはないはず。
「メルは上流階級の出身だからね。というか、今でもホントはアタシ様よりずっとお金持ちだよ」
「ハァ?」
あまりに予想外な言葉に、素っ頓狂な声が唇で防ぎきれず転がり落ちる。
だが、タムは何度もこの問いに答えてきたのだろう。別段面白くもなさそうに、ヘッと肩を竦める。それでいいのか雇い主。
一方のメルクリオは俺の間抜け面が面白かったのか。オッホホホホホホと高笑いを響かせた。
「驚いたかしらァん!? こう見えてアタシ、夜と家柄は凄いのよォ!」
普段ならとても信じられなかっただろうし、薬は程々にしとけよ、くらいの口は叩いたかもしれない。
だが、今は違う。むしろ現状では信じたいと言った方がいいだろう。
「……そいつァいい話聞いたぜ」
ニヤリと口の端に笑みが零れる。そう簡単に手に入らないと思っていた上の情報を、掴まえられる手段が目の前に転がってきたのだから。
しかし、タムはぎょっとした様子で目を見開き、メルクリオはあらまぁと言いながら軽く頬を染めた。
嫌な予感。
「もしかしてヒュージ、新しい扉開いちゃった?」
「ちげぇよ!?」
「んんー、そうねぇ? ヒュージちゃんならアタシは歓迎だ、け、ど」
「ちげぇっつってんだろ! にじり寄ってくんな! 上流階級って方だよ!」
恋をするにも遊ぶにも、俺にそっちの気はない。断じてない。
おかげで危うく拳が出そうになった。普段なら自身のある俺様パンチだが、それでどうにかなりそうに思えないのがなお恐ろしい。
「分かってるわよン。もぉ、冗談が通じないんだから」
「明らかに本気の目でしたからねぇ……ひぇっ」
俺の心を背後からこっそり代弁したサミュエルだったが、ぐるりと勢いよく振り返ったメルクリオに顔を青ざめる。
分かるぞその気持ち。だが今は俺の身代わりになっておいてくれ。
コホンと咳払いを1つ。
「頼みってのはあれだ。どんなことでもいいから、サテンの情報を集めてくれ。金なら後で払う」
「あらゾッコン。ちょっと妬けちゃう」
この危険生物、誰か何とかしてくれないだろうか。それに頼らなければならない俺も俺だが。
「メル……」
「フフッ、でもそういう熱い想い、嫌いじゃないわ。ツケといてあげる」
「よ、よし、頼んだ」
ジト目のタムを前にしても何のその。まだ何かいい寄ってきそうなメルクリオから逃げるように、俺は素早く踵を返した。
逃げたかったのも嘘ではない。だが、それ以上に今の俺は忙しいのだ。
「あっ、ヒュージ! 1人で抱えんじゃないよ! アタシ様だって、言ってくれれば協力するんだから!」
背中へ飛んできた声に、振り返らないまま手を挙げて応える。
ジジイが居なくなってからサテンに会うまで、俺は常に1人でやってきた。だから、あいつが居なくなればまた元通りなのだろうとも。
「キヒっ……物好きが居たもんだぜ」
悪くない。そう思うのは、俺が弱くなったからかもしれない。
■
「ごちそうさま」
給仕の女性に食器を返す。
料理の質は高いし、寝床も部屋も清潔で、着替えまで用意されている檻の中。まるでホテルにでも泊まっているかのような感覚だ。
あるいは、希少生物を保護する動物園、と言い換えてもいいかもしれない。
「ふん……行ったか。順調らしいな」
暗がりの奥から聞こえた老人の呟きに、私ははてなと首を傾げる。
「何したのさ」
「大したことじゃない。ただ、どこぞの知りたがりに返事を送っただけさ」
「返事? そんなのどうやって――」
言いかけて、はたと考える。
食事の音は確かに聞こえていた。だが、その姿は暗がりの為にほとんど見えていない。
仮に何か外からの情報が手渡されたとして、視力を失っている老人には何かを見ることなどできないはず。更には紙もペンもない中で返事を書くなど、とても信じられないが。
そこまで考え、不意に可能性が降りてきた。
「食器に何かしたんだ」
目が見えないことを分かっているなら、手で触ってわかるような暗号を刻むはず。その返事を刻むことなら、あるいは暗がりでもできるかもしれない。
どう? と問いかければ、暗がりからは呆れたようなため息が転がり出た。
「お前さんが気にする必要はない。ただ、今はその時を待ってりゃいいのさ」
「何にも教えてくれないのはズルいと思うけど」
「そうやってペラペラ喋るのは頂けんな」
グッと言葉に詰まる。普段通りの私が強張ってしまうくらい、この老人は光が届かないはずの目で、心の奥底を見抜いているようだった。
「……分かってるよ。私以外、誰も知らない方がいいってことくらい」
「大きなエネルギーは世界の均衡を確実に乱す。そうしない為に、取れる全ての手を取らねばならない」
「さもなくば、って言いたそうだね」
「物を天秤に乗せた以上、この世は必ず対価を求める。お前は何で支払うつもりだ?」
「覚悟はしてるよ。ずっとずっと前から、ね」
私の望み。それは絶対に叶えなければならないこと。たとえ何を、己の命さえ犠牲にしてでも。
分かっているから、檻の中でも平然としていられる。
見えるはずの無い私の作り笑いに、老人は何も答えなかった。