天空牢は特別な場所である。何らかの罪を犯した者が収監されているのは他の牢獄と同じでも、中に入れるのはいわゆる特権階級を持つ者のみ。
罪を犯した者は貴賤を問わず捕らえられ、平等に裁かれ刑を受ける。そんな建前を市民以下の者達に信じ込ませ、特権階級に対するガス抜きとして有効に機能するための場所。
だからこそ牢とは形ばかりで、中層の市民以上の暮らしを送れる空間が作られていた。
美しいカーペット敷きの廊下に、銀食器が微かな音を立てる。
給仕の女性はいつもと変わらず、洗い場を目指して真鍮色のカートを押していた。屋敷に仕えるかのような雰囲気は、牢獄という場所には似ても似つかないが、誰も不思議には感じなかっただろう。
ただ1人、美しいコートを纏った男を除いては。
「……給仕」
「何かございましたか? ホンスビー様」
キラリと光る眼鏡と、きっちり整えられた髪型に、給仕の女性はすぐさま頭を下げる。
その内心、珍しいこともあるものだ、とも思っていた。基本的に寡黙で常にすまし顔をしているこの男が、廊下で誰かに話しかける姿など彼女は見たことがなかったのだから。
「特別棟の2人に、何か変化は」
「食事量も見た目も、変わった様子はありません。ご老体もいつも通りです」
何もかもいつも通り。数年以上、老人の給仕を担当している彼女は、自信を持って何の変化もないと言い切れる。
相手がどんな存在かなんて知りようもない話だが、それでも給仕の女性は真面目であり、健康状況の把握も自らの職務と考えてよくよく観察し続けていたのだから。
そうですか、とホンスビーは小さく頷く。食事量という言葉からか、その視線は自然とカートの上へ流れ。
「ん?」
不意にピクリと細い眉が跳ねた。
途端に給仕の女性は背筋に冷たい物が走る。真面目な彼女には、全く不安になる必要などないのだが、身に覚えがないからこその恐れが背筋を伸ばさせた。
「あ、あの、何か不審なことでも……?」
鋭い視線が彼女を射抜く。
それはほんの一瞬だったが、女性には息が止まる程長く感じられたことだろう。
だが、ホンスビーは小さく呆れたような笑みを口元に浮かばせた。
「――エプロンに汚れが付いていますよ。職長の目に入れば、長い長いお説教を受ける羽目になるのでは?」
「あ、あらお恥ずかしい」
それはほんの小さな汚れだったが、ホンスビーの言葉に間違いはなく、彼女は慌ててハンカチで拭った。
無論、染み抜きの仕事が増えてしまったのは言うまでもない。
「失礼いたしました。ありがとうございます、ホンスビー様」
普段より少しぎこちない一礼を残し、給仕の女性はそそくさと廊下の角を曲がっていった。
その背を視線で追いかけた後、ホンスビーは大股で自らに与えられた執務室へと戻ると、机の上に置かれた電信機を取ってクランクハンドルを回した。
『はい、交換でございます』
「シュヴァリエ・ド・フェールに繋いでくれ。至急だ」
『承知致しました』
女性の声が途切れると、男は静かに息を吐く。
その口元にはうっすらと、喜色とも警戒ともとれぬ奇妙な表情が浮かんでいた。
■
「新月の夜――って今夜じゃん!?」
タムの裏返った声がアパルサライナーの操縦室へ響き渡る。
当然だろう。俺を呼び出した張本人であるメルクリオはともかく、話を聞いていた他の全員がポカンと口を開けねばならなかったのだから。
「サテンちゃんたら大したものね。何だか知らないけれど、自力で逃げ出す方法があるみたいよ」
気楽にそう言いながら、煙管を吹かすムキムキのオネエは銀のフォークを揺すっていた。
「他に何か情報は!?」
「東側の廃墟、と言うくらいしかアタシには読み解けないわねェ」
「あぁん? コラシーの回りなんざどこもかしこも廃墟だらけ――で……」
はた、とメルクリオの揺するフォークに目が行った。
微かな傷、長短に刻まれた模様、点と線。
思考が止まった、と言ってもいい。出かかっていた声は、喉の奥でどこかへ消えてしまった。
「んー……まぁでも、エリアわかってれば探せるでしょ。というか、オールドディガーが見えたらサテンの方から出てくるって、ね?」
「あ、ああ」
楽観的に笑うタムに、俺はほとんど無意識の返事を零す。
――ただの偶然、だってのか?
脳裏に思い出される苦い記憶。頭の悪い俺が、学の無い俺が、ガキの頃に殴られながら教えられた暗号。
新月の夜、女は東、そして。
「どうかしたかしらぁん?」
ハッと顔を上げる。
いくつもの不思議そうな目がこちらを見つめていた。
「い、いや……なんでもねぇよ。助かったぜ」
気付かれないようこっそりと息を吐く。隠す必要も無い話のはずなのに。
「どしたのヒュージ? なんか変――」
「上手く行くことを祈るわ。困ったことがあれば、またいらっしゃい」
タムの声を押し切って、メルクリオは意味深な笑みを浮かべる。
それは優しさだったのか、あるいは何かを知っているが故の強者としての振る舞いか。
彼ないし彼女が何を考えているにしても、俺はただひらりと手を振って、アパルサライナーの操縦室を後にした。
今この瞬間に、興味本位で薮を突くべきでない。あるいは永遠にだ。
それに、次の目的地は既に定まっている。最下層の貨物ターミナルを抜け、いくつかのタラップを上り、赤茶けた足場を歩いて、オイルと鉄とタバコと小便の臭いが入り交じった格納庫の並びに出た。
一階層上の工房に繋がっている縦長のそこで、俺は半開きになっている大きなシャッターを覗き込む。
「リヴィ、どうだ?」
「最後の調整……終わりっ! 試験もよし!」
半ば反射的だったろう。振り返りもしないで、オリヴィアは機体の隙間から大きな声を張り上げる。
尤も、それを聞くまでもなく仕上がっているのは見えていたが。
「だいぶゴテゴテしたなァ。いや元々かもだけどよ」
外装に無理やり付けられた鉄板は、多分スチーマンのスクラップから引っぺがした装甲材で、腕にはデミロコモか何かのゴム板付き履帯の切れ端が巻かれ、肩と腰には列車の車輪らしき円形の鉄まで見える始末。
挙句はその周りに武器だの弾だのがぶら下げられて、元より大柄な相棒は、行商人も真っ青な見た目になっていた。
「防御力も火力も必要だって言うからじゃん。まぁそれでも全体的に性能は上がってる、はず」
オリヴィアはオイルに汚れた頬を拭いながら、ふんすと自信ありげに鼻を鳴らす。
その表情が妙に満ち足りて見えるのは、ずっと触りたがっていたオールドディガーに、自分なりに満足のいく改造が施せたからだろう。
普段なら金に糸目をつけないやり方に頭を抱える所だが、今この瞬間はその目利きと技術が心底ありがたい。
「上等だぜ。金は足りたか?」
「ぎりっぎりだよぎりっぎり! 工賃なんて割に合わないんだから!」
「キヒッ! ならツケといてくれてや」
「言ったなー? へへっ、はーつっかれたつっかれた! エルツ君に癒してもーらお。エルツくーん!」
満足気な笑みを浮かべながら、ぐっと伸びをしたかと思うと、オリヴィアは跳ぶように作業台の向こうへ駆けていく。
すると間もなく、キャビネットの後ろから甲高い悲鳴が響き渡った。
「わきゃあああああ!? おおおオリヴィアさん、急に抱き着いて来ないでくださぁい!?」
「にゃーダぁメダメ。ちゃんとお姉ちゃんって呼んでくれないとぉ」
どうやら仕事の手伝いまでさせられていたエルツは、余程オリヴィアに気に入られたらしい。ぬいぐるみかのように抱きしめられ、頬擦りまでされるなんて羨ましい限りだ。
しかし、当人に愛でられることを楽しむ余裕はないらしい。
「ひゅ、ヒュージさぁん、助けてぇ」
「あぁん? そりゃ助け求める相手を間違ってんぜ。お前にも世話ンなったがな。キヒッ!」
事が片付いたら、こいつにも礼をしなければならないが、残念ながら今ではない。
見捨てるような物言いに、エルツはひぃんと涙目になる一方、俺は近付く上品な足音に振り返った。
「お待たせしました、ヒュージ・ブローデンさん」
シャッターから差し込む光に落ちた女の影に、俺はニヤリと口の端を歪める。
これで役者は揃った。
「リオ?」
「待ってたぜ姉ちゃん。上手い事できたか?」
「ええ。必要な物はここに」
黒髪の組合受付事務員は、やけに大きなリュックサックを下ろすと、処理済みと判のつかれた書類の写しをこちらへ差し出した。
密かにリオという名前を頭に刻みつつ、その2つを受け取って肩に担ぐ。
「アンタにも追加で借りだな。俺みたいなのじゃ、
「お気になさらず。都市外労働者様の特殊な手続きも、私の職務には含まれますので。それにしても――」
美しいまでの営業スマイルを浮かべたかと思えば、メガネの奥にある視線は、吸い寄せられるように俺の背後。それも明らかに上へと向かい。
「戦争にでも行かれるのですか?」
最後は訝しげな声となって転がり出た。
それを軽く鼻で笑う。
「俺が兵士に見えんのかよ。ただの御守りさ。世話ンなったな」
「そう、ですか」
国の為、組織の為、民衆の為。俺はそんな大層なお題目が似合うような質じゃない。
ただ自分がやりたいことをやる。そこに金とポリシーが通るなら。
でかい荷物を担いだ俺は格納庫の3人に背を向け、コックピットまでのタラップを昇った。
「あ、ヒュージさん! いってらっしゃい! 帰りを待っています!」
「今度こそ、ディーちゃん壊して帰って来ないでよー!?」
「良い仕事となりますよう」
三者三様の言葉に、コックピットの中へリュックサックを放り込んでから、軽く肩越しに振り返る。
誰かに送られてここを出る、なんで日が俺にも来るとはな。
ハッチ閉鎖。圧力系、駆動系、電装系確認。異常なし。
スナップスイッチを叩き、各種電磁弁を解放。久しぶりに自分だけの操作で相棒が目を覚ます。
「結局なぁんにも分かんねぇまま、こんなとこまで来ちまったなァ」
分からないのに何故続けるのか。我ながら馬鹿馬鹿しい話だと自嘲気味に笑う。
考えて選んだわけじゃない。だとしても、決めた以上は今更なのだ。
無駄に新調された通信機のレシーバーを引っつかむ。
「管制、15番ゲート開けろ! オールドディガー様の出発だァ」
『こちら管制。15番を解放する。直接出発の待機位置へ前進せよ』
手を振る3人を見下ろしながら、オールドディガーは踏みしめるように1歩ずつ前へ。
「オラオラァ、退かねぇと踏みつぶしちまうぜぇ!? ヒャーッヒャッヒャッ!」
出発口周りをうろうろしている蒸気ターレットや小型スチーマンが、慌てて進路を開けていく。
気をつけろだとか、犬に食われろだとか喚き散らす連中を見下しながら、俺は待機位置へ機体を進ませた。
膝を縮め、走行用の履帯を展開。蒸気圧をかけ、ブレーキに手を添える。
『管制よりオールドディガー。進路クリア、出発せよ』
「ヒャッハァ!」
開かれたゲートから、セメント敷きの誘導路を一気に駆け抜ける。
そんなものはほんの一瞬だ。気持ち程度に道はあれども、少し進めば古い時代に捨てられた瓦礫の山と荒れた地面ばかり。
新月の暗がりをライトで照らしながら走り、コラシーの東側へ回り込む。
「あの暗号が俺の読み通りなら、俺の雇い主様は多分こん中のはず、だが」
大きな建物の残骸を前に、俺は機体を停止させた。
コラシーの周りは都市の照明で比較的明るいが、東側だけは別だ。貨物駅ともスチーマンゲートとも離れている上、中身を漁り尽くされた廃墟や瓦礫が広がるばかり。
強いていえばコラシーから出たリサイクル不能のゴミが投棄されている場所であり、そういう業者を除けば、都市の人間が関心を向けることは無い。
「ダストシュートねぇ……てこたぁ、こいつが旧リサイクル施設なんだろうが」
機体を降りて施設を中を覗き込む。
昼間に読んだ暗号が俺の知る通りであるならば、可能性があるのはこの辺りだと踏んだのだが、正直自信はなかった。そもそも、こんな場所を旅行者であるサテンが知っているとは思えない。
暫く中を見て回ったが、やはりゴミが散らばるのみ。これはハズレかと肩を落とし、外を探し回らねばならなくなった現実に気分がゲンナリした時。
ふいに、地面が鳴った気がした。
「ああん? 今の地響きは何……ハァ?」
照明なんて存在しないはずの東側。にも関わらず、廃墟に空いた穴から、星明かりにしては異様に強い光が差し込んでいた。