盗難の叫び声に振り返れば、繁華街らしき角から飛び出してくる大型の蒸気バイク。
成程。この辺りは中層エリアでもあまり治安が良くないのだろう。
「ふむ?」
計算は一瞬。ほぼ行き当たりばったり。
足元から割れた石畳の破片を拾い、胸元に挟まっていた布切れを手に取ってそれを乗せる。
悪いことをした分、簡単でも人助けはしておこう、なんて。
「どけおらぁ!」
バシュンバシュンと特徴的なピストンの作動音を響かせて迫るバイク。
それを視界の中心に捉えながら、私は布に乗せた石をくるくると回転させてから。
「っしょぉ!」
勢いよく振り抜いた布はスリングとなり、飛び出した石はしっかりと風を切った。
ひったくり犯が被っていた半キャップのヘルメットから、カァンと派手な音が鳴り響く。と同時に、大型の蒸気バイクは道路を滑ってひっくり返った。
「こけたぞ! 捕まえろ!」
持ち主なのか、犯行の瞬間を見ていた者なのか。大柄な作業着の男たちが集まってきて、呻いていたひったくり犯をバイクから引っぺがす。
その様子を尻目に、私はひっくり返ったままのバイクを引き起こした。
「すごいな異国の人! さっきのは貴女が――え?」
駆け寄ってきた青年は、バイクに跨った私に言葉を詰まらせる。
賞賛の言葉は嬉しいが、残念ながら受けている余裕が私の方になかったのだ。何せ周りからサイレンの音が聞こえ始めていたのだから。
「ゴメン、急いでるから借りるね!」
ポカンとした野次馬連中を前に、私は全力で
ピストンに蒸気を叩き込まれたバイクは、弾かれたようにフロントタイヤを持ち上げながら走り出す。
東西通りと書かれた標識の道を、走るロコモを縫うように駆け抜ける。バイクを操作するのは初めてじゃないが、こんな荒々しい運転は流石に経験がない。
交通整理員が立つ交差点を超えた所で、派手な笛の音が響き渡り、回転灯を光らせた小型スチーマンが建物の隙間から飛び出してきた。
『そこの二輪車。危険運転です、直ちに停車しなさい』
「申し訳ないけど、聞けないかなッ!」
交通警察局だろう。公安局や軍隊とは別組織だろうとは思うが、それでも捕まってしまえば結果同じこと。国外追放と出入国禁止なんて可愛い処罰にはならいだろう。
『指示に従いなさい! 直ちに停車せよ!』
右へ左へバイクを走らせる。正直、狭い路地を逃げるのに大型バイクは不向きだったとは思うが、小型スチーマンとなら悪くない勝負ができている。
しかし、向こうも警察としてのプライドがかかっているからだろうか。細道で撒いたかと思えば、次の路地から回り込んででも追いかけてくる上、徐々に距離も詰まっていた。
私には今、自分が何処に居るのかさえ分からない。そろそろ大通りは終わりが近いはずだが。
「しつこいなぁ! くそぉ――え?」
道路の終わりに突然現れる立ち入り禁止の看板。その横に刻まれた中間廃棄場の文字。
『危ないぞ止まれ!』
「ッ……今更ァ!」
加減弁を大きく開け、バイクのパワーに任せてフロントタイヤを跳ね上げる。
もしこの建物が、老人の言っていた通りならば、きっとこの門も。
「だああああああ!」
派手な音を立てて錆びたチェーンが弾け飛び、バイクの勢いに負けた門は勢いよく開いた。
『あの女マジか……! おい止まれ! 指示に従わねば攻撃するぞ!』
「さっすが、ちゃんとしてる人は優しい――ねッ!」
警告してくれる辺り、やはり警察はホンスビー達と繋がっていない。
なら、できるだけ迷惑はかけたくないな、なんて思いながら、私は無人の建物の中へとバイクを突っ込ませた。
白熱灯に照らされた埃まみれの室内に車両を止め、転がるように走ってダストシュートを探す。
「ケホッ……さっきからこんなのばっかりだ。あー、お風呂入りたい!」
『残念だが、それはもう少し後になるぞ女』
「わっ!?」
目の前のレンガ壁がガラガラと音を立てて崩れる。
そこから現れたのは、回転灯とサーチライトを点けた先ほどの小型スチーマン。どうやら廃墟と知って、力づくの行動に出てきたらしい。
正義感逞しい公権力というものに、私は悪い印象を持っていない。けれど、この場で捕まえられては困る。
「あ、あはは……無茶するね」
『お互い様だろう。怪我をしたくなければそこを動くな』
「そう言われても、私にも色々事情があるんだ」
『だろうな。話なら署でいくらでも聞いてやる。抵抗するな』
流石に理屈など聞いては貰えないかと思いつつ、静かに後ずさる。
逃げるならどっちだ。小型スチーマンが動きにくい方向となれば小部屋が並ぶ方か。だが、ダストシュートがあるとすれば大きな部屋の隅とかで。
「あっ」
目に入った。
ちょうど最奥の壁面。5つのダストシュートが口を開けており、その内の1つだけ使用禁止のテープが破れていて色が違う。
少しばかり、出来過ぎているような気もするが。
「うーん、申し訳ないんだけどお話はまた今度かな。誘ってくれてありがとね」
『おい! 動くんじゃ――なぁッ!?』
警察官のひっくり返った声を横目に、ダストシュートへと頭から飛び込んだ。
想像通り埃っぽく汚れた空間だったのは言うまでもないだろう。だがそれ以上に。
「わああああっ!? 思ったより急なんだけど!? これ大丈夫なやつ、じゃないよねぇ!?」
考えてみれば当然なのだろうが、シュートはほぼほぼ直滑降。無論通過する人間の安全性なんて考えられているはずもなく、剥がれた塗装や飛び出したボルトの先端に、服の裾だかが引っかかって嫌な音を立て、それでもなお身体は勢いを増していくばかり。
このまま落ちれば本当に死ぬ。行先のリサイクル施設も廃墟だとすれば、さっきのように繊維が置いてあるようなこともないはず。
唯一希望があるとすれば。
――ヒュージ君。
それは願望に過ぎなかったかもしれない。続く浮遊感の中、ゴツンと壁面に体がぶつかり、死と痛みへの恐怖から目を瞑り、それでなお脳裏に走った名前。
「ああん? シュートになんか居んの――」
細めた視界に、こちらを見上げる大きな顔が見えた。
それはちょうどシュートの出口だったらしい。
「やああああああっ!」
「ちょっ!? まっ、ぐべっ!?」
ガチンと派手な衝撃が体に走る。
頭がくらくら、目がチカチカ。唇から血の味がするし、節々も痛い。
けれど、意識はあった。普通に生きていた。
のしかかった先に、どこかで感じたことのある人の体温がある。
「あは……あはは……アハハハハッ! あーおっかしい」
込み上げてきた笑いに、下敷きになった胸板をポコポコと叩く。
分厚くて固い癖に、しっかり私のクッションになってくれたのだ。そう思えば可愛いじゃないか。
そんな私に対して、当のヒュージ君はうごごと妙な声を上げながらゆっくりと体を起こした。
「き、気でも狂ったかこの野郎。いや十分狂ってるわ。半分自殺じゃねぇか」
「信じてた、って言ったら?」
唇を拭いながら、わざとらしい上目遣いでフフッと笑う。もちろん、身体もこれ見よがしに密着させたままで。
しかし、ヒュージ君はどちらかと言えば危機感の方が勝ったらしい。細い目をぎょろりと剥きながら、ゼンマイ仕掛けのような動きで首を傾けた。
「おーう、随分と都合のいい言葉があったもんだなァ? 往復ビンタすんぞォ」
「ごめんごめん、痛いからやめて」
ビンタと言いながら持ち上げられた握り拳に、笑いながら身体を離して両手を振る。口では物騒なことを言っても、実際に彼がそんなことをしないのはよく分かっているのだが。
「ったく、ド派手な真似しやがって。さっさとずらかんねぇとな」
「あ、ちょっといいかな」
「あん?」
身体をゴキゴキ鳴らしながら立ち上がったヒュージ君を前に、私は1つの違和感を体に覚えていた。
服が変に破れていて恥ずかしいのは、この際致し方ない。あちこちに擦り傷切り傷ができて痛いのも、どうしようもない話だ。
問題は痛いとか恥ずかしいとかそういう内容ではなく、ただ私は自然と彼に向かって両腕を広げ。
「抱っこしてくれない? なんか安心したら、腰抜けちゃった」
「お……お前って奴はぁ……」
へへ、なんて照れ笑いが浮かぶのは、流石に仕方のない事だと思いたい。
安心したのは貴方にまた会えたから。そう伝えれば、信じてもらえるだろうか。