俺には止められた理由なんて分からない。が、これは娘さんの方にも余程不思議だったらしい。大きな目をぱちくりと瞬かせていた。
「何さ? まだ何かある?」
「お前にではない。ブローデン君と言ったね。少し個人的に話したいことがある」
「俺……いや、自分と?」
慌てて言い直したが、これが丁寧な言葉遣いとして正しい自信はない。
しかし、コルドゥは気にした様子もなく、うむと小さく頷いた。
「随分勿体ぶるね。大事な話かな」
のけ者にされたとでも思ったのか。どこか湿り気のある半眼を父親に向けるサテン。
「大したことでは無い。お前は先に行っていなさい。構わんかね?」
「ふーん……? ヒュージ君、いい?」
流石に相手が父親とあっては分が悪いのか。不服そうではあったものの、彼女はちらりと俺の方へ視線を向けてくる。
無論、俺には断る理由もない、とも言いきれない。できれば、この息苦しさが為に断りたくもあるのだが。
「あ、ああ」
流石にサテンの父親相手に、雰囲気きついんで帰らせてくれ、などと言えるはずもない。
背中で扉の閉まる音を聞きながら、コルドゥの前にぽつねんと残されてしまった。
消えていく気配。流石のサテンも聞き耳を立てるような真似はしなかったらしい。それを理解してか、コルドゥは小さく肩を落とした。
「改めて礼を言わせてもらおう。よくあの馬鹿娘を、私の下へ連れ帰ってくれた」
「いや……自分はその、それが仕事と言いますか」
あくまで俺とサテンの関係は労使契約に過ぎないと、それだけのことを説明するのにも、どうしてか乾いた口では上手くいかない。
俺は何を緊張しているのか。いや、空気に呑まれていると言うべきだろう。
だが、そんなこちらの様子を見てか、コルドゥは娘を前にしてすら見せなかった小さな笑みを口元に零した。
「そう固くならんでよい。この場は公式のものでは無いし、今は議員ではなく父親の立場で話しているつもりだ」
「……そりゃ、気遣いどうも」
だからと言ってすぐ落ち着けるはずもないのだが。ババアと話すのでこういう雰囲気は多少慣れているとはいえ、同じとは流石に思えない。
「ヘロン式のスチーマンに乗ってきたと聞いた。古い機体だ。都市外労働者かね」
「知ってんスか」
意外な言葉に目を丸くする。
ただの金持ち、にはとても思えない雰囲気のコルドゥが、スチーマンなどという労働者の道具を知っているとは。
「詳しい訳では無い。だが、私が幼い頃にはまだ幾ばくか、稼働している機を見たものでね。老いぼれのダウザー達が扱っていたよ」
皺の刻まれた手が背後にあるカーテンを小さく撫でる。窓から何が見えるのかは分からないが、多分入国管理局がある方角だろう。
「聞かせてくれないか。娘との足跡を」
それは多分、父親としての興味だったのだろう。
実の娘がどのような経緯で飛び出したにせよ、その足跡を知りたいと思うのは別段不思議な話でもない。
隠す理由もなかった俺は、事の顛末を大雑把に語った。あくまで、自分の知り得る範囲の事を訥々と。
コルドゥにとって満足がいく内容だったかは分からない。だが、話し終わって一息つくと、彼は眉間を揉みながら静かに息を吐いた。
「そうか……では君はあの子が持ち帰った秘密を?」
「分からねぇことだらけだが、知らねぇっつったら嘘になる」
真っ先に飛び出したのがコアの話だった以上、娘の奇行とも言える道中については上手く飲み下せたらしい。大した親父だ。
ともあれ、ここで嘘を吐いた所で意味の無いことは重々承知。軽く肩を竦めれば、コルドゥは今まで以上に低くむぅと唸った。
「それでなお君がここに居るということは、アレは余程君を気に入っているのだろう。もしかすると、婚姻を考える程にだ」
「……そこまでは知らねぇよ」
何かが胸に刺さった気がした。
ときめく、というのはこういう感覚だろうか。にしては随分と締め付けがキツイというか、腹の奥が酸っぱくなりそうな感覚に思えるが。
「国家機密を守るためならば、懐に入れた方が良い。サテンが君を消したくないと考えたならそう動くだろう。それが唯一の首輪だと信じて」
俺とてアイツの企みは理解している。だが、流石はよくご存知で、などとは口が裂けても言えそうにない。
婚姻。飼い殺しとするならば、これ以上ない拘束力ではあろう。結局はサテンの掌の上であることは否めないが、他に生きる道がないなら文句もない。
ただ、コルドゥの唯一という言葉には引っかかった。
「ハッキリしねぇな。何が言いてぇ?」
「君にはこの家の、フルトニスを建国より支えてきたキオン家の人間として、生きる覚悟があるかね」
見たまえ、と言われて彼の視線を追いかける。
壁に飾られているのは勲章や表彰の類。本棚に並ぶ分厚い書籍が何物かなど、俺には全く見当もつかない。
「この部屋は息苦しいだろう。かけ離れた環境というのは、その体格に見合わない正装のようなものだ」
「そりゃあな。違うっつったら嘘になっちまう」
似合うとか似合わないとか。そういうレベルの話ではない。
キオンという苗字を受けるということはつまり、目の前にいるサテンの親父に並ぶ風格を求められるのだろう。一介の都市外労働者に、何ならアングラに片足を突っ込んでいるようなダウザーの俺にだ。
正直言って想像もつかないし、俺は馬鹿だができるなれると虚勢を張れる程間抜けになったつもりもない。
「だが、俺が殺されねぇ道は他にねぇんだろ?」
俺の命に大した値打ちがあるとは思っていないし、サテンが目指す先の為ならばと覚悟もした。
それでも、できることなら死にたくはないのだ。逃げだと思われたって構わない。
選択肢すら分からない俺にできるのは、どうすりゃいいんだと手を広げて見せることくらい。
ふと、コルドゥの目が鋭くなった気がした。
「必要なのは証明だよヒュージ君。君が信頼に足る人物だというね」
「……信頼ねぇ? んな方法あるかァ?」
何より難しい話を吹っかけられた気がする。
俺だって一応は商売人だ。それがどれほどの価値を誇り、かつどれほど得難いものであるかは理解している。
ただ、こちらが分かっていると踏んだ上で、このオッサンは問うたのだろう。だから俺が呆けたフリをすれば、コルドゥは椅子に腰を下ろして顔の前に手を組んだ。
「問おう。君は何を重んじる。何を持ってこの仕事に挑んだ?」
「そりゃ金さ。必要なら契約書を出したっていいぜ」
「明快だな。君が選びたまえ。少なくとも私には、それを与える権限がある」
机の上に置かれた上等な紙に、美しいペンがスラスラと走る。
コルドゥは俺を明快だと言った。だが、俺はそれをそのまま返してやりたく思う。
――道があるなら悩む理由なんざねぇのさ。悩めるほど高級な頭なんて持っちゃいねぇってのに。
最適解であるかは分からないとしても、新たに見つけた道には光明が差しているように見えた。
俺にとっても、サテンにとっても。
■
ゴンゴンゴン。
不躾な音を立てながら、私はドアに拳をぶつける。
「ヒュージ君、起きてるー? ねーえー?」
究理院はお祭りのようだった。すぐさま厳重な警備体制が敷かれ、職員にも緘口令が出されたかと思えば、フルトニスの最高権力者である国民会議議長が飛んできて、事情の説明に追われ追われてその後は緊急会議に引っ張られた。
気付けば夜もとっぷり更けて、やっと帰れると思った時に頭を過ったのがモヒカン頭の顔だった。
「全く、追いかけてくるかと思ったら先に休むなんて。せめて一言くらい欲しいなぁ」
別に隣に居てほしかった訳ではない。そんな子どもじみた甘え方はしないつもりだけれど、どうしてか少し拗ねた気持ちがお腹の中に渦巻いた。
だからノックの音が普段よりやかましくなるのも仕方がない事。廊下に響くような音は、彼を叩き起こすのに十分だったはず。
しかし、静かに近づいてきた気配はヒュージ君ではなく、白い口髭を蓄える
「サテンお嬢様? どうかなさいましたか?」
「うげ。い、いや、ヒュージ君に用があってさ。貸した部屋ってここで合ってる、よね?」
もう少しお振舞というものを、なんて小言が出てきそうな気がして身構える。この歳になってマナー指導なんて勘弁願いたい。
そんなことを思って言い訳がましいことを捲し立てたのだが、執事長ははてなと首を斜めに傾ける。
「ええ。お部屋に間違いはありませんが、ブローデン様でしたら、夕方頃お出かけになられて以降戻られておりませんよ」
「出かけた? どこに?」
「直接はお会いしておりませんが、ご当主様からは観光に出られたと伺っております」
彼が部屋に籠るようなタイプでないことは知っている。実際、見たことのない景色があるのだから辺りをふらついてみようとくらいは考えるかもしれない。
だが、外は既に闇の帳。可能性があるとすれば道に迷ったか、あるいは外見から何かトラブルに巻き込まれているか。
――後者だとすれば相手が可哀そうな目に遭ってそうだけど、待って。観光?
引っかかったのはこれだ。わざわざ彼が、そんなことをお父様に言っていくだろうか。それもわざわざ町が静かになっていく夕方に。
嫌な予感が背中を走った。こういう時の勘は妙に当たるから嫌いだ。
「じいや!」
「はいお嬢様」
「部屋の鍵は持ってるよね。貸して」
「はい、こちらに」
「それから今すぐ国境管理局に連絡を。今日の出国記録に、ヒュージ・ブローデンの名前が無いか確認して。大型スチーマンの貨物輸送も」
「承知致しました。暫しお待ちください」
白手袋から奪うように取った鍵でドアを開け、ずかずかと部屋の中へと踏み込んだ。
明かりの落とされた部屋の中は綺麗なまま。寝具には皺の1つすら見当たらない。
人の香りがしない空間は、まるで最初から使われていなかったかのような雰囲気さえ漂っている。
「荷物もない……ん?」
机の上に白く浮かんだ紙片を手に取る。まるでこの部屋には似合わない皺くちゃのそれには、不慣れな汚い字が不器用に走っていた。
――約束は守る。後は頑張れ。楽しかったぜ相棒。
短い短い言葉。
けれど、それだけで十分に分かる。分かってしまう。
「ヒュージ君……キミは……どうして」
私は紙片を握りしめたまま、鼻の奥に走るツンとした痛みを堪えるように、消えたままの天井照明を見上げていた。