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第37話 ミニッツリピーター

 小鳥はヤカンで湯を沸かし、ステンレス製の手動グラインダーでゆっくりと珈琲豆を煎り、穏やかな時間を過ごした。2つのマグカップにはブラックコーヒーを注ぎ、ペールブルーのマグカップにはが「お土産だよ」と買って来てくれたココアパウダーをホットミルクで溶かした。


「はい、どうぞ」


 ワインボトルに挿したトルコ桔梗は暑さで少し萎れてしまったが、白に淡い藤色が心に沁(し)み入る。ローチェストに花を手向け、小皿に乗せたカヌレとブラックコーヒーを供えた。ゆっくりと息を吸い、に手を合わせる。


「はい、拓真もどうぞ」


 ローテーブルには少し大きめの皿に2個のカヌレを置いた。ブラックコーヒーとミルクココアに湯気が立つ。小鳥がカヌレの包みをピッと切ると、ラム酒の芳醇な香りが漂った。ふと顔を上げればそこに微笑む拓真がいる様な、そんな気がする。


「美味しいね」


 側から見れば気味の悪い姿だろう、けれど確かに拓真の気配を感じるのだ。もう涙は溢れない。そんな事をしている暇はなかった。いつ何時(なんどき)、タイムリープという不可思議な力が消失してしまうか分からないからだ。小鳥は、ほんの僅かな可能性にでも縋(すが)り付き、あの交通事故を回避したいと必死だった。


(それでは、明日のタイムリープに備えて寝ましょう!おやすみ、拓真!)


 小鳥はシーリングライトを消した。



翌朝



 小鳥は、賑やかしいアブラゼミの鳴き声で目が覚めた。そして、幾許(いくばく)かの期待を込めて携帯電話を握った。


「えーーっと、今度は何年にタイプリープしたかな?2020年!?2021年!?それとも2019年!?」


 然し乍ら、カレンダーアプリに表示されたのは2024826だった。隣の公園では、ラジオ体操に来ていた小学生たちが、ブランコを漕(こ)いでいる。突き抜ける様な青空には、ジャンボジェット機が飛行機雲を描いて飛んでいた。


「・・・・・・なんで!?タイムリープしてない!!!」


 小鳥は枕に突っ伏して脚をばたつかせた。肝心なところで起きないタイムリープ、小鳥は歯痒さで、ソファにクッションを投げつけた。その時、ローテーブルに置いたパティップの時計が床に落ちた。



カチャン!



「あっ!ごめん!お祖母ばあちゃん!」


 この時計は、2017年に亡くなった祖母の生前の形見分けで、小鳥が譲り受けた物だ。





『わぁ、綺麗!』

『小鳥ちゃんに良く似合いますよ、サイズも丁度良いわね』

『すごく可愛い!お祖母ばあちゃん、こんな素敵な時計貰っていいの!?』

『勿論ですよ、小鳥ちゃんに差し上げます』


 ただ、そのパティップの腕時計は大変高価な品で、美術品とも称される。両親は小鳥に『その腕時計は金庫へ片付けなさい』と再三、促した。ところが祖母は、『この腕時計は、使うからこそ価値があるんですよ!』とその提案を一蹴した。


『小鳥、この腕時計は御守りだからね。肌身離さず、大事にするんですよ』


 この時計には、ミニッツリピーターという”鐘の音(ね)の数で時刻を告げる”ロマンティックな機能が備え付けられている。そこで、はた、と小鳥は動きを止めた。


「ミニッツリピーター・・・・・・・・・」


 そうだ。小鳥は眠りから目覚める時、無意識のうちにミニッツリピーターでその時間を確認していた。


「ソファから起き上がった時も鐘が鳴っていた・・・」



リンゴーン リンゴーン リンゴーン リンゴーン リンゴーン リンゴーン リンゴーン

7時


チーン チーン

2分 


チン チン チン チン チン

5秒



「拓真のベッドで起きた・・・・・あの時も、鐘が鳴っていた」 



リンゴーン リンゴーン リンゴーン リンゴーン リンゴーン

5時


チーン チーン チーン チーン チーン

5分


チン チン チン チン チン

5秒




 朧(おぼろ)げな記憶の中で、微かに響いていた鐘の音(ね)。小鳥はミニッツリピーターのスライドピースに指を添えた。ピンクゴールドに輝くパティップの腕時計が、鐘の音(ね)を響かせた。


 現在の時刻は、AM9:04


リンゴーン リンゴーン リンゴーン リンゴーン リンゴーン リンゴーン リンゴーン リンゴーン リンゴーンチーン 


(・・・・・9回、9時)


チーン チーン チーン チーン


(・・・・・4回、4分)


チン チン チン チン チン


(・・・・・5回、5秒)


 小鳥は、祖母の言葉を思い出した。


『小鳥、この腕時計は御守りだからね。肌身離さず、大事にするんだよ』


(そうだ!!時計が、この時計が私を拓真の所へ連れて行ってくれるかもしれない!!)


 浅い眠りとミニッツリピーターの因果関係に辿り着いた小鳥は、夜を心待ちにした。


(・・・・早く!早く夜に!)


 「早く夜に!」と気は急いたが、時計の針の進み具合をいつもより遅く感じた。午前中は、何も手に付かなかった。然し乍ら、今夜、眠る事が出来なければ本末転倒だ。小鳥は部屋の棚の埃を拭き取り、掃除機をかけ、窓ガラスまで磨いた。


(・・・・早く!早く夜に!)


 何度、壁掛け時計を見ても針は進まず、壊れているのではないかと電池を入れ替えてみた。電波時計の受信が悪いのかと窓際に持って行き、上下に振ってみたりもした。当然、携帯電話も確認する。


(こんなに1日って長かったっけ!?)


 勤務先の店舗がセール期間の時など、気が付けば窓の外は真っ暗だった。それがどうだろう、今日は待てど暮らせど日が沈まない。


(そうだ!時間を飛び超えた時にお腹が空いていたら困るよね!)


 カップラーメンに湯を注ぎ、ズルズルと麺を啜(すす)っている時に気が付いた。


(別にが移動するだけなんだから食べなくても良かったんじゃないの!?)


 そう思いながら、スープは最後の一滴まで飲み干した。



リンゴーン リンゴーン リンゴーン リンゴーン リンゴーン リンゴーン リンゴーン リンゴーン 

8時(20時)


チーン チーン チーン チーン

4分


チン チン チン チン チン チン チン チン チン チン

10秒


 窓の外の夕陽は沈みきってはいないが、小鳥は早速、左の手首に祖母の形見の腕時計を着け、携帯電話を握ってベッドに横になった。


(早く、早く寝なきゃ!)


 ところが、意識は冴え渡り、瞼(まぶた)も閉じる事を知らない。興奮状態に陥った小鳥はなかなか寝付けなかった。


(早く、早く眠らなきゃ!)


 そして小鳥は、祈りにも似た言葉を繰り返し唱えた。


「お祖母ばあちゃん、私を過去に連れて行って・・」


 小鳥は、大きく息を吸って深く吐いた。


「拓真は私の運命の人なの・・」


 小鳥は、目を硬く瞑(つむ)った。


「拓真を助けたいの・・」


 小鳥の目尻には、涙が滲んだ。


「お祖母ばあちゃん、私を助けて・・」



 東の空に瞬(またた)いていた明けの明星が白く霞(かす)む頃、小鳥の意識は薄らいでいった。遠くから聞こえる、始発電車の枕木(まくらぎ)が軋む音。アパートの隣の公園で、4年の眠りから這い出たアブラゼミが鳴き始めた。浅い眠りの中、小鳥は腕時計のスライドピースを動かした。



リンゴーン リンゴーン リンゴーン リンゴーン リンゴーン

5時


チーン チーン チーン チーン チーン チーン チーン チーン

8分


チン チン チン チン チン チン チン

7秒



 小鳥の眠るベッドに微かな鐘の音(ね)が響いた。

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