大きく息を吸って吐いた小鳥は、コンクリートの階段を上った。ゆっくりと振り向き、そして2階廊下の突き当たりを見遣った。
(・・・・拓真)
一番奥の角部屋が205号室、拓真の部屋だ。恐る恐る足を踏み出す。五つ目の扉を開ければ、いつもそこには拓真の笑顔があった。
(・・・・拓真)
数日前の細雪。
(あれは、あれは絶対、夢なんかじゃない)
小鳥は、玄関の扉にそっと手を近付けてドアノブを握った。ゆっくりと下ろし前へと引っ張る。ガチャっと鍵が引っ掛かる音がした。ドアノブは動かない。もう一度、前へと引いてみたが、扉はびくとも開かなかった。震える指でインターフォンを押してみたが、応答は無かった。
(当たり前じゃない、今日は仕事だって言ってたでしょ)
ただ、仕事もなにも、この状況でなんと言ってこの部屋を訪ねれば良いのだろう。
(2024年から来ました、あなたの婚約者です、とでも言うの?)
そんな事をすれば、目の前で扉が勢いよく閉められ、鍵を掛けられてチェーンを下されるのがオチだ。
カツン カツン カツン
思い悩んでいるところへ足音が上って来た。小鳥は咄嗟に身構えたが、それは別の部屋の入居者だった。暗がりに立つ小鳥の姿に酷く驚いた顔をしていた。
「ご、ごめんなさい!失礼します!」
小鳥は慌てて階段を駆け下り、郵便ポストを一瞥(いちべつ)すると、軽自動車に乗り込んだ。わん太郎が激しく吠えていた。
(そうだ・・・キャンプ場、キャンプ場に行こう)
小鳥は一旦、考えを整理しようと、静かで、
(ここだ)
青葉が茂る桜並木を抜けると、目の前に、広々とした湖が広がる。浅瀬では親子連れが水遊びを楽しみ、湖上ではボートを漕ぐカップルの姿があった。後方発進をした軽自動車は、駐車区間で停車した。シートベルトを外し周囲を見回した。駐車場の一番端に、キャンプ場へと続く小径があった。
(ここでバーベキューをしたんだよね)
エンジンを止めて車を降りると、刺すような日差しと蝉しぐれが小鳥に降り注いだ。白い暑さに目を細めた小鳥は、首筋の汗をハンカチタオルで拭き取りながら砂利道を歩いた。
(・・・・ここだ)
バーベキューの日、
(ここで、拓真と線香花火を・・・したんだよね)
たった1本の線香花火だとしても忘れられない出来事だった。
(あ、あれ?)
ところが、思い出を辿っているうちに、小鳥は、
(どうして?なんで?)
歩行者用の青い点滅信号、振り返る笑顔の拓真、黒いワンボックスカーが急停車した白い横断歩道、道路に転がる黒いスニーカー。
(覚えてる、あの瞬間は覚えている)
目の前に差し出されたヒナギクの大きな花束、大きさに見合う花瓶が無く、空のワインボトルやヤカンに花を挿したので、部屋中にヒナギクの花が咲いた。
(覚えている、ヒナギクの花束は覚えている)
けれど、それ以外の細かな出来事が思い出せない、記憶が曖昧になっている。
『小鳥ちゃん・・・あのね』
『小鳥ちゃん、お誕生日おめでとう!もうひとつ伝えたい事があるんだ・・・・下さい』
小鳥の2024年2月14日の誕生日。バレンタインデーにプロポーズされた時、
(なんで!?タイムリープを繰り返したから!?)
もしかしたら、タイムリープ後に出会った、
(・・・だって、画像が1枚も残っていないんだもの!)
(忘れちゃ駄目だ!)
小鳥は、
(忘れたくない!)
小鳥は、
(忘れたくない!)
(忘れたくない!)
(忘れたくない!)
(忘れたくない!)
小鳥は、
(忘れちゃ駄目!)
ひと文字、ふた文字と思い出を連ねると涙が滲(にじ)み、紙にハタハタと滲(し)みを作った。
(泣いてちゃ駄目!全部、全部書くんだから!)
小鳥は一心不乱に書き続けた。
「痛たたたた、ちょっと頑張っちゃった」
けれど、明日の朝には、またひとつ忘れているかもしれない。小鳥は必死で記憶の欠片(かけら)を拾い集めた。
そこでふと思う。
(
ふたたびタイムリープすれば、オリーブの指輪を手にした