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第40話 薄れゆく記憶

 大きく息を吸って吐いた小鳥は、コンクリートの階段を上った。ゆっくりと振り向き、そして2階廊下の突き当たりを見遣った。


(・・・・拓真)


 一番奥の角部屋が205号室、拓真の部屋だ。恐る恐る足を踏み出す。五つ目の扉を開ければ、いつもそこには拓真の笑顔があった。


(・・・・拓真)


 数日前の細雪。と口論になった寒い夜は、この扉の前で何時間も帰りを待った。足元から這い上がる冷たさは、今も身体が覚えている。


(あれは、あれは絶対、夢なんかじゃない)


 小鳥は、玄関の扉にそっと手を近付けてドアノブを握った。ゆっくりと下ろし前へと引っ張る。ガチャっと鍵が引っ掛かる音がした。ドアノブは動かない。もう一度、前へと引いてみたが、扉はびくとも開かなかった。震える指でインターフォンを押してみたが、応答は無かった。


(当たり前じゃない、今日は仕事だって言ってたでしょ)


 ただ、仕事もなにも、この状況でなんと言ってこの部屋を訪ねれば良いのだろう。


(2024年から来ました、あなたの婚約者です、とでも言うの?)


 そんな事をすれば、目の前で扉が勢いよく閉められ、鍵を掛けられてチェーンを下されるのがオチだ。


カツン カツン カツン


 思い悩んでいるところへ足音が上って来た。小鳥は咄嗟に身構えたが、それは別の部屋の入居者だった。暗がりに立つ小鳥の姿に酷く驚いた顔をしていた。


「ご、ごめんなさい!失礼します!」


 小鳥は慌てて階段を駆け下り、郵便ポストを一瞥(いちべつ)すると、軽自動車に乗り込んだ。わん太郎が激しく吠えていた。


(そうだ・・・キャンプ場、キャンプ場に行こう)


 小鳥は一旦、考えを整理しようと、静かで、との思い出が詰まったキャンプ場を目指した。ペールブルーの軽自動車は、賑やかな市街地を抜けて緩い勾配を上り、九十九(つずら)折りの先を目指した。


(ここだ)


 青葉が茂る桜並木を抜けると、目の前に、広々とした湖が広がる。浅瀬では親子連れが水遊びを楽しみ、湖上ではボートを漕ぐカップルの姿があった。後方発進をした軽自動車は、駐車区間で停車した。シートベルトを外し周囲を見回した。駐車場の一番端に、キャンプ場へと続く小径があった。


(ここでバーベキューをしたんだよね)


 エンジンを止めて車を降りると、刺すような日差しと蝉しぐれが小鳥に降り注いだ。白い暑さに目を細めた小鳥は、首筋の汗をハンカチタオルで拭き取りながら砂利道を歩いた。


(・・・・ここだ)


 バーベキューの日、と一緒にクーラーボックスを運び込んだ東屋(あずまや)。小鳥はその椅子に座って涼を取った。屋根の隙間から落ちた木漏れ日に風を感じていると、忙(せわ)しないアブラゼミの鳴き声に紛れ、薄暗い林の奥からヒグラシの鳴き声が聞こえて来た。


(ここで、拓真と線香花火を・・・したんだよね)


 たった1本の線香花火だとしても忘れられない出来事だった。


(あ、あれ?)


 ところが、思い出を辿っているうちに、小鳥は、と過ごした日々の記憶が薄らいでいる事に気が付いた。


(どうして?なんで?)


 歩行者用の青い点滅信号、振り返る笑顔の拓真、黒いワンボックスカーが急停車した白い横断歩道、道路に転がる黒いスニーカー。


(覚えてる、あの瞬間は覚えている)


 目の前に差し出されたヒナギクの大きな花束、大きさに見合う花瓶が無く、空のワインボトルやヤカンに花を挿したので、部屋中にヒナギクの花が咲いた。


(覚えている、ヒナギクの花束は覚えている)


 けれど、それ以外の細かな出来事が思い出せない、記憶が曖昧になっている。


『小鳥ちゃん・・・あのね』


 と、初めての朝を迎えたのはクリスマスの日だった。その時、耳元でなにかを囁かれたが、それも今となっては不確かだ。


『小鳥ちゃん、お誕生日おめでとう!もうひとつ伝えたい事があるんだ・・・・下さい』


 小鳥の2024年2月14日の誕生日。バレンタインデーにプロポーズされた時、はなんと言っただろうか?



(なんで!?タイムリープを繰り返したから!?)



 もしかしたら、タイムリープ後に出会った、との記憶も全て忘れてしまうのではないか?小鳥は、不安な思いに駆られた。


(・・・だって、画像が1枚も残っていないんだもの!)


 の画像は、小鳥の携帯電話のカメラロールから、1枚残らず消えていた。彼の存在は、跡形ともなく消えてしまった。小鳥は急いで軽自動車に乗り込むと、コンビニエンスストアへと向かった。油性のボールペンと白い手帳を手にレジに向かう。


(忘れちゃ駄目だ!)


 小鳥は、と、との思い出を忘れてしまわない様に、2人と積み重ねた日々を、詳(つまび)らかに白い手帳に書き出した。


(忘れたくない!)


 小鳥は、との出会いが2023年7月7日のバーベキューだった事を書いた。


(忘れたくない!)


 は、バーベキューの席でビールを溢した。小鳥のジーンズの裾がビールで濡れてしまい、拓真が弁償させて欲しいという話の流れで2人はLIMEのIDを交換した。


(忘れたくない!)


 は、バーベキュー会場に携帯電話を持って来ていなかった。LIME IDを交換しようと言った小鳥に、拓真は携帯電話番号を書いたクッキーの箱を手渡した。


(忘れたくない!)


 と待ち合わせたカフェ。2人の拓真は、それぞれが、それぞれ同じ様に、LIMEメッセージを使って、小鳥に愛の告白をした。


(忘れたくない!)


 小鳥は、と婚約し、2025年7月7日に結婚式を挙げる予定だった。そして、婚約指輪の内側には、You are the one.あなたは運命の人と印字されていたと、付け加えた。


(忘れちゃ駄目!)


 は、オリーブの葉をモチーフにした銀の指輪を、小鳥の左手の薬指に嵌(は)め、プロポーズした。


ひと文字、ふた文字と思い出を連ねると涙が滲(にじ)み、紙にハタハタと滲(し)みを作った。


(泣いてちゃ駄目!全部、全部書くんだから!)



 小鳥は一心不乱に書き続けた。



 との記憶を白い手帳に綴(つずり)終えた頃、小鳥の手はボールペンの黒いインクで汚れ、右手の中指は赤く色付き凹んでいた。


「痛たたたた、ちょっと頑張っちゃった」


 けれど、明日の朝には、またひとつ忘れているかもしれない。小鳥は必死で記憶の欠片(かけら)を拾い集めた。


 そこでふと思う。


はお墓の中だけど、はどこに消えたの?)


 ふたたびタイムリープすれば、オリーブの指輪を手にしたと、またどこかで巡り会うのだろうか?小鳥は白いノートをそっと閉じた。

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