小鳥が運転するペールブルーの軽自動車は、黄色点滅信号の交差点に差し掛かった。車の往来が少ないこの道は、終電間際になると点滅信号に変わる。
「あっ!」
小鳥はブレーキパッドを力一杯踏み込み、急ブレーキを掛けた。その時、三毛猫が道路に飛び出し、横断歩道を一目散に走ると、家屋と塀の隙間に姿を消した。
「・・・」
「へぇ、猫でも横断歩道を渡るんだな」
「横断歩道、拓真も気をつけてね」
「車が来なきゃ、渡っても良いだろ」
小鳥は息を呑み、ハンドルを強く握った。
「駄目よ!」
「なんだよ、いきなりデケェ声出しやがって、びっくりするだろ」
「駄目よ!拓真は信号無視しちゃ駄目!」
小鳥が感情を露わにして、語気を強めた事に拓真は驚いた。
「こんな夜中に車も走ってもいねぇのに、信号守る奴がいるか?」
「駄目、駄目だからね!警察に捕まっても知らないからね!」
「
「駄目ったら、駄目!」
脳裏を過ぎるあの瞬間、手を離した拓真が一瞬で消えた。
「分かったよ、今度からは気を付けます!」
「お願いね」
「へいへい」
フロントガラスに霧雨が付き、ワイパーが雨粒を弾いた。対向車線のヘッドライトが眩しく、前を走るテールランプが赤く滲んだ。
「雨かよ」
「車で良かったね」
「そうだな、助かった。サンキュ」
「拓真、アパートまでの道、教えて」
「おまえの車、カーナビねえのかよ?」
「予算オーバーだったの!」
「ふぅん」
小鳥にすれば通い慣れた道、見慣れた景色を眺めてアクセルを踏んだ。2023年には解体が始まっていたビルは寂れたままそこに建っていた。アメリカ楓(かえで)の直線道路を西へと走らせた。
「あれ?なんでこっち方面だって分かった?」
「駅の方に向かえばそうなるでしょ?」
「あ、そうか。おまえ、頭良いな」
ドキッとした。誤魔化す声が辿々しい。
「普通、そうだよ。思い付かなかったの?」
「俺は思い付かなかった」
「頭、良いんでしょ?それくらい察しなさいよ」
「うるさいなぁ」
次からは、誤魔化す事にも長(た)けて来た。焦る事なく、スルスルと嘘が口から転がり出た。
「はい、では、ここからはナビゲーションお願いします」
「かしこまりますで、ございます」
「ふざけてないで!はい!右?左?どっちに曲がるの!?」
片側3車線の大通り。小鳥はルームミラーで後続車が居ない事を確認し、いつでも車線変更が出来る様に、敢えて中央車線を走行した。サイドウィンドーに肩肘を付いていた拓真が、横柄な態度で「あっち」と右車線を指差した。
(・・・こんな!こんな態度の拓真を!一瞬でも好きかもっ・・・て思った自分が馬鹿だったわ!)
「右?右折で良いの!?」
「うん」
「うん、じゃないわよ!交差点に入る前に言ってよね!」
助手席で腕を組んでいた拓真が身を起こした。
「すまん、ちょっと寝てた」
「寝てたじゃないでしょ!アパートに帰る気あるの!?」
「小鳥ちゃん
「もう!」
拓真がふざけて言った、「小鳥ちゃん」という呼び方に、
(・・・・拓真)
「小鳥!小鳥!?」
「あ、ごめん」
「ごめんじゃねぇよ!ボーッとしてんじゃねぇよ!」
「ごめん」
「左手にコンビニあっから、その手前の細い道を左折な」
「あ、うん」
この細い道を抜けるとカーブミラーがある。
「一時停止、気を付けろよ?警察が張ってっからな」
「そうなの!?」
「おう、ファンファン鳴って、しょっちゅう捕まってるぞ」
”メビウスの輪”の向こうの世界では、そんな事は1度も無かった。慌てた小鳥が運転する軽自動車は、一時停止無視の違反を繰り返していた。けれど警察車両の姿はなく、違反切符を切られる事は無かった。
(やっぱり違うのかな)
そう考えながら一時停止。対向車線に車が走って来ない事を確認すると、小鳥はウィンカーを右に下げた。
「おい、なんで右なんだよ」
小鳥は、気を抜いていた。つい、いつもの癖で拓真のアパートの方角へウィンカーを下ろしていた。
「・・・・え、なんとなく?」
「なんとなくだぁ?」
「うん、動物の勘って感じかな?」
「動物の勘だぁ?」
「う、うん」
すると拓真は小鳥の横顔を凝視した。
「分かった!」
「な、なに」
小鳥の心臓は跳ね、手に汗を握った。
「あれだろ、村瀬から聞いたんだろ?」
「ゆ、結?・・・結、拓真のアパートに来た事があるの?」
「なに、妬けちゃう感じ?」
「そんなっ、そんな訳ないでしょ!」
「俺の事、知りたくなった感じ?」
「別に!」
拓真の顔は、薄っすらとにやけていた。
「村瀬の従兄弟が俺の知り合いなんだよ。家飲みで何回か来てんだ」
「そうなんだ」
「今度、おまえも来いよ」
「あ、うん」
「それとも、泊まってく?」
「泊まらないわよ!」
小鳥はそう反論しつつも、黒とグレーで統一された、
(同じなのかな、見てみたいな)
右折した小鳥の軽自動車は、タイル壁のアパートの路肩に停まった。すると、車のエンジンを聞きつけた、わん太郎が激しく吠え出した。
ワンワン ワンワン ワンワン ワンワン
「うるせぇだろ?」
「いつも吠えるの?」
(・・・・吠えるよね、わん太郎は私の事、憶えていてくれるかな?)
「はい!それでは到着です!」
「おう」
「今日はワンピースありがとう、でも、そんなに買わなくても良いよ」
「買いたいんだよ」
「なんで」
「俺が選んで、俺が買った服を、おまえに着て欲しいんだよ」
「なっ・・・・な!」
拓真の声がワントーン低くなり、面立ちが変わった。シートベルトのタングプレートを外すと、シュルシュルと巻き戻るシートベルトの音が車内に響いた。
「じゃっ、じゃあもう行くね!」
拓真の瞳の色が深く沈み、口数が減った。
「待てよ」
拓真の分厚い手のひらが小鳥の華奢な手首を握る。
「え、ちょっ」
「・・・・・」
拓真は小鳥のシートベルトを、めいっぱい迄、引き寄せるとやや力強く口付けた。ふわりとシダーウッドの香が小鳥の鼻先を掠(かす)め、目眩を覚えた。
「・・・・ん!」
小鳥の口から驚きの声が漏れたがそれは重なる唇に蕩(とろ)ける様に消えた。どうしてその口付けに応えてしまったのかは判らない。面差しが
「ん、ふぅっ」
「ん」
熱い息遣いが絶え間なく続き、拓真の舌先は小鳥の口腔を忙しなく求めた。互いを強く掻き抱き、拓真の指先は小鳥のシートベルトのタングプレートを外した。
「あっ、ん」
拓真の唇は小鳥の首筋に口付け、それは激しさを増してゆく。それは数秒か数分か、わん太郎の鳴き声が背後(うしろ)から覆い被さり、小鳥は我に帰った。
「だっ、駄目!」
拓真は動きを止めてゆっくりと身体を離した。それはいつもの戯(おど)けたものではなく、
「悪ぃ」
「や、だ、大丈夫」
「つい」
「大丈夫」
「なぁ、部屋来ねぇ?」
「ううん。もう遅いから帰る」
「分かった、送ってくれてサンキュ」
拓真は助手席のドアを開けると、1度だけ振り返りコンクリートの階段を上って行った。205号室に明かりが灯った。
(あ、カレー)