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第49話 雨の夜

 小鳥が運転するペールブルーの軽自動車は、黄色点滅信号の交差点に差し掛かった。車の往来が少ないこの道は、終電間際になると点滅信号に変わる。


「あっ!」


 小鳥はブレーキパッドを力一杯踏み込み、急ブレーキを掛けた。その時、三毛猫が道路に飛び出し、横断歩道を一目散に走ると、家屋と塀の隙間に姿を消した。


「・・・」

「へぇ、猫でも横断歩道を渡るんだな」

「横断歩道、拓真も気をつけてね」

「車が来なきゃ、渡っても良いだろ」


 小鳥は息を呑み、ハンドルを強く握った。


「駄目よ!」

「なんだよ、いきなりデケェ声出しやがって、びっくりするだろ」

「駄目よ!拓真は信号無視しちゃ駄目!」


 小鳥が感情を露わにして、語気を強めた事に拓真は驚いた。


「こんな夜中に車も走ってもいねぇのに、信号守る奴がいるか?」

「駄目、駄目だからね!警察に捕まっても知らないからね!」

子どもがきじゃないんだぞ、なにそんなに心配してんだ」

「駄目ったら、駄目!」


 脳裏を過ぎるあの瞬間、手を離した拓真が一瞬で消えた。


「分かったよ、今度からは気を付けます!」

「お願いね」

「へいへい」


 フロントガラスに霧雨が付き、ワイパーが雨粒を弾いた。対向車線のヘッドライトが眩しく、前を走るテールランプが赤く滲んだ。


「雨かよ」

「車で良かったね」

「そうだな、助かった。サンキュ」

「拓真、アパートまでの道、教えて」

「おまえの車、カーナビねえのかよ?」

「予算オーバーだったの!」

「ふぅん」


 小鳥にすれば通い慣れた道、見慣れた景色を眺めてアクセルを踏んだ。2023年には解体が始まっていたビルは寂れたままそこに建っていた。アメリカ楓(かえで)の直線道路を西へと走らせた。


「あれ?なんでこっち方面だって分かった?」

「駅の方に向かえばそうなるでしょ?」

「あ、そうか。おまえ、頭良いな」


 ドキッとした。誤魔化す声が辿々しい。


「普通、そうだよ。思い付かなかったの?」

「俺は思い付かなかった」

「頭、良いんでしょ?それくらい察しなさいよ」

「うるさいなぁ」


 次からは、誤魔化す事にも長(た)けて来た。焦る事なく、スルスルと嘘が口から転がり出た。


「はい、では、ここからはナビゲーションお願いします」

「かしこまりますで、ございます」

「ふざけてないで!はい!右?左?どっちに曲がるの!?」


 片側3車線の大通り。小鳥はルームミラーで後続車が居ない事を確認し、いつでも車線変更が出来る様に、敢えて中央車線を走行した。サイドウィンドーに肩肘を付いていた拓真が、横柄な態度で「あっち」と右車線を指差した。


(・・・こんな!こんな態度の拓真を!一瞬でも好きかもっ・・・て思った自分が馬鹿だったわ!)


「右?右折で良いの!?」

「うん」

「うん、じゃないわよ!交差点に入る前に言ってよね!」


 助手席で腕を組んでいた拓真が身を起こした。


「すまん、ちょっと寝てた」

「寝てたじゃないでしょ!アパートに帰る気あるの!?」

「小鳥ちゃんに帰りたい」

「もう!」


 拓真がふざけて言った、「小鳥ちゃん」という呼び方に、を思い出し、胸が痛んだ。


(・・・・拓真)


「小鳥!小鳥!?」

「あ、ごめん」

「ごめんじゃねぇよ!ボーッとしてんじゃねぇよ!」

「ごめん」

「左手にコンビニあっから、その手前の細い道を左折な」

「あ、うん」


 この細い道を抜けるとカーブミラーがある。


「一時停止、気を付けろよ?警察が張ってっからな」

「そうなの!?」

「おう、ファンファン鳴って、しょっちゅう捕まってるぞ」


”メビウスの輪”の向こうの世界では、そんな事は1度も無かった。慌てた小鳥が運転する軽自動車は、一時停止無視の違反を繰り返していた。けれど警察車両の姿はなく、違反切符を切られる事は無かった。


(やっぱり違うのかな)


 そう考えながら一時停止。対向車線に車が走って来ない事を確認すると、小鳥はウィンカーを右に下げた。


「おい、なんで右なんだよ」


 小鳥は、気を抜いていた。つい、いつもの癖で拓真のアパートの方角へウィンカーを下ろしていた。


「・・・・え、なんとなく?」

「なんとなくだぁ?」

「うん、動物の勘って感じかな?」

「動物の勘だぁ?」

「う、うん」


 すると拓真は小鳥の横顔を凝視した。


「分かった!」

「な、なに」


 小鳥の心臓は跳ね、手に汗を握った。


「あれだろ、村瀬から聞いたんだろ?」

「ゆ、結?・・・結、拓真のアパートに来た事があるの?」

「なに、妬けちゃう感じ?」

「そんなっ、そんな訳ないでしょ!」

「俺の事、知りたくなった感じ?」

「別に!」


 拓真の顔は、薄っすらとにやけていた。


「村瀬の従兄弟が俺の知り合いなんだよ。家飲みで何回か来てんだ」

「そうなんだ」

「今度、おまえも来いよ」

「あ、うん」

「それとも、泊まってく?」

「泊まらないわよ!」


 小鳥はそう反論しつつも、黒とグレーで統一された、の部屋の雰囲気や、漂う柑橘系のシダーウッドの香を思い出し、その室内に招かれたいと思った。


(同じなのかな、見てみたいな)


 右折した小鳥の軽自動車は、タイル壁のアパートの路肩に停まった。すると、車のエンジンを聞きつけた、わん太郎が激しく吠え出した。


ワンワン ワンワン ワンワン ワンワン


「うるせぇだろ?」

「いつも吠えるの?」


(・・・・吠えるよね、わん太郎は私の事、憶えていてくれるかな?)


「はい!それでは到着です!」

「おう」

「今日はワンピースありがとう、でも、そんなに買わなくても良いよ」

「買いたいんだよ」

「なんで」

「俺が選んで、俺が買った服を、おまえに着て欲しいんだよ」

「なっ・・・・な!」


 拓真の声がワントーン低くなり、面立ちが変わった。シートベルトのタングプレートを外すと、シュルシュルと巻き戻るシートベルトの音が車内に響いた。


「じゃっ、じゃあもう行くね!」


 拓真の瞳の色が深く沈み、口数が減った。


「待てよ」


 拓真の分厚い手のひらが小鳥の華奢な手首を握る。


「え、ちょっ」

「・・・・・」


 拓真は小鳥のシートベルトを、めいっぱい迄、引き寄せるとやや力強く口付けた。ふわりとシダーウッドの香が小鳥の鼻先を掠(かす)め、目眩を覚えた。


「・・・・ん!」


 小鳥の口から驚きの声が漏れたがそれは重なる唇に蕩(とろ)ける様に消えた。どうしてその口付けに応えてしまったのかは判らない。面差しがと瓜二つだからなのか、の熱に絆(ほだ)されてしまったのか、小鳥の腕は拓真の背中に回されていた。


「ん、ふぅっ」

「ん」


 熱い息遣いが絶え間なく続き、拓真の舌先は小鳥の口腔を忙しなく求めた。互いを強く掻き抱き、拓真の指先は小鳥のシートベルトのタングプレートを外した。


「あっ、ん」


 拓真の唇は小鳥の首筋に口付け、それは激しさを増してゆく。それは数秒か数分か、わん太郎の鳴き声が背後(うしろ)から覆い被さり、小鳥は我に帰った。


「だっ、駄目!」


 拓真は動きを止めてゆっくりと身体を離した。それはいつもの戯(おど)けたものではなく、男性おとこの目をしていた。


「悪ぃ」

「や、だ、大丈夫」

「つい」

「大丈夫」

「なぁ、部屋来ねぇ?」

「ううん。もう遅いから帰る」

「分かった、送ってくれてサンキュ」


 拓真は助手席のドアを開けると、1度だけ振り返りコンクリートの階段を上って行った。205号室に明かりが灯った。


(あ、カレー)


 と同じだ。初めての口付けはカレーの味がした。小鳥は、拓真のアパートをふり仰ぐとアクセルを踏み、ハンドルを右に切った。


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