心臓が跳ね、こめかみが脈打った。コンクリートの階段を上る膝がガクガク震えていた。背後(うしろ)を振り返る事すら憚(はばか)れたが、小鳥がどんな顔をしているのか気になり、1度だけ振り向いた。小鳥の表情は想像よりも穏やかだった。
(そんな、嫌そうな顔じゃねぇな)
安堵した。
(早すぎだろ)
そんなつもりは無かった。
(なに、がっついてんだよ)
小鳥の横顔に見惚れていた拓真は、自動車の中という、狭く、外界から切り取られた空間に唆(そそのか)され、気が付けば華奢な手首を掴んでいた。その後は、衝動と情熱に浮かされるがまま、ぽってりとした魅惑的な赤い唇を塞いでいた。
(小鳥、なんだかおかしいし)
口付けた瞬間、脳裏で言い訳を考えた。ここ数週間の小鳥の言動が可笑しい。まるでどこかに消え入りそうな危うさと、心ここに在らずといった面持ちは拓真を不安にさせた。だから、その不安を掻き消す為に唇を奪ったのだと、自身に言い訳をした。
(・・・ちぇっ、明日からどんな顔すりゃ良いんだよ)
小鳥から、男女交際についての良い返事は貰っていない。にも関わらず、一足飛びに口付けをし、あろう事か「部屋に来る?」とまで言ってしまった。あの状態で部屋に上げるなど、性的関係を持つ事を示唆(しさ)している。
「セックスしてぇとか、そんな単純なもんじゃねぇんだけどなぁ」
カーテンの隙間から外の様子を窺(うかが)うと、小鳥の運転する軽自動車はウィンカーを出して走り去った。
「どうしたら良いんだよ、馬鹿か俺は!」
小鳥の後輩販売員からせしめたシフト表を確認すると、明日は小鳥の公休日だった。よほどの用が無い限り、小鳥は自宅に居るはずだ。拓真は勤務を早めに切り上げ、部屋に謝罪に行こうと考えた。
翌日の拓真は、その日1日、仕事に身が入らなかった。同僚の佐々木からは「なにぼんやりしてるんだよ」と背中を叩かれ、営業面会のアポイントメントでは時間に遅れ、取引先から注意を受けた。
「申し訳ありませんでした」
「以後、注意して頂けると助かります」
「はい!」
「気を付けて下さい」
「申し訳ありませんでした!」
ただ、拓真の強気な態度を”何事にも物怖じしない、意欲的な部下”と評価している営業部の課長は、「熱があるんじゃないか?」「早退しても良いんだぞ?」と気遣った。拓真はそれを逆手に取り、大手を振ってビジネスリュックを肩に掛けた。
そして、拓真の脚はレンガ畳の舗道を急いだ。
(うーーーーーん、よく分かんねぇ)
数十分後、拓真はフラワーショップの前で仁王立ちしていた。フラワーショップの隣には、パティスリーが併設されている。パティスリーのガラス越しの店内では若い女性がショーケースを覗き込み、アントルメを選んでいた。
(ちょっと見てみっか、見るだけ、見るだけ、見るだけ)
甘いものに目がない拓真は、吸い寄せられる様にパティスリーに足を踏み入れた。
(これ、これは・・・・!)
香ばしく焼き上げたサブレとヘーゼルナッツのダックワース、桃のコンポートが、涼やかなジュレとふんわりとしたクリームに包まれていた。
「このクリームにはシャンパンソースが使われています」
「しゃ、シャンパンソース」
思わず唾を飲み込む。季節のアントルメだとポップが掲げられていた。ショーケースのトレーには丁度、2個の桃のコンポートが拓真に微笑み掛けていた。
(これを理由に部屋に上がり込む!いやいやいや、そうじゃ無いだろう!?純粋なティータイムだ!)
首を横に振った次の瞬間、拓真は迷う事なく、店員に5,000円札を手渡していた。さて、ここまでは想定内だ。
(さて、と)
女性に謝罪するにはこれしか無い、と拓真はフラワーショップの扉を開けた。青い草と数種類の花の香りが入り混じった異空間に、拓真は一瞬、怯(ひる)んだ。これまで花束を贈った事など無い、ましてや花の種類などさっぱり分からない。
(チューリップは分かる、でも怖えな)
やや開きかけたチューリップの花弁(はなびら)から垣間見た、雄蘂(おしべ)と雌蕊(めしべ)が実にグロテスクだった。
(これは、無い無い!)
振り向いたフラワーキーパー(冷蔵ショーケース)の中には色彩豊かで華やかな薔薇が咲いていたが、小鳥のイメージとはかけ離れていた。ケーキの箱を手に、困り顔をした拓真に女性スタッフが声を掛けて来た。
「なにかお探しですか?」
「花を贈りたいんですが、なんかあります?」
なにかあるも何も、ここはフラワーショップなのだ。拓真は我ながら間抜けだと失笑してしまった。
「記念日のお花ですか?それとも、お見舞いですか?」
「記念日というか、その」
「はい?」
「彼女と喧嘩をしてしまって、それで・・・」
「あぁ、彼女さんに!」
「はい」
拓真は咄嗟に小鳥の事を
「花言葉でお選びになる方もいらっしゃいますよ」
「花言葉」
「はい、例えば」
*カーネーション 純粋な愛情
*ブルースター 幸福な愛・信じあう心
*赤いアネモネ 君を愛す・真実
*ストック 愛情の絆
*ヒナギク 希望・平和・純潔・あなたと同じ気持ち
「うーーーーん」
その候補には赤い花が多く、小鳥に似つかわしく無いと思った。その中で、ブルースターという小さな花は、小鳥が好みそうな青色をしていた。ただ残念な事に、在庫が数本しか無かった。
「・・・・青か」
「彼女さんは、青がお好きなんですか?」
「はい」
「このお花をメインに花束をお作りする事も出来ますよ?」
「どんな感じになりますか?」
女性スタッフは、ブルースターに黄色いミモザやフリージア、白い霞草(かすみそう)を合わせてみたが、拓真がイメージした心動かされる組み合わせでは無かった。
「これは、この花の名前はなんですか?」
それは幾重(いくえ)にも重なった可憐な花弁(はなびら)、中心から円を描く白、温かなフォルムに、小鳥の笑顔を思い浮かべた。
「この花はヒナギク、花言葉は希望です」
「ヒナギク」
値段も手頃で数も揃っていた。
「この花だけで花束を作って下さい」
「他のお花は入れなくて宜しいですか?」
「はい!ヒナギクだけでお願いします!」
女性スタッフが1本、2本と、ヒナギクを手に取ってゆく。その度に、拓真の心臓は跳ね、小鳥に手渡す自分の姿を思い描いた。
「本数は何本くらいに致しましょうか?」
「そう、こんな感じで抱き抱えられるくらいの花束にして下さい」
拓真は腕を伸ばすと、花束を抱き締める仕草をして見せた。
「彼女さんが羨ましいです、こんな花束、貰ってみたいです」
白いヒナギクの花束は、シャンパンゴールドのサテンリボンで結えられ、拓真はその重さに驚いた。
(結構な重さだな)
片手にはパティスリーの箱、もう片方にはヒナギクの花束。この状態で、帰宅ラッシュの電車に乗る事は到底難しい。大通りまで出た拓真は、街を流すタクシーに手を挙げた。
「お客さん、どちらまで?」
後部座席のスプリングがギシっと音を立てた。(小鳥はアパートにいるだろうか?部屋に招き入れてくれるだろうか?)緊張が込み上げて来た。
「桜台の児童公園までお願いします」
「はい、児童公園、駅に近い方ですか?」
「あ、はい。お願いします」
タクシードライバーがルームミラー越しに拓真に話し掛けてきた。
「お客さん、プロポーズでもするんですか?」
「あ、はい?」
「そんな立派な花束、なかなか見ませんよ」
「ははは、そうですか?」
「ええ」
車窓から眺める夕暮れ近い街並み、拓真の小鳥への思いは逸った。