タクシーの後部座席の扉が閉まった。見上げたアパートの壁には、”ティアハイム”の文字、305号室、3階の角部屋、小鳥の部屋には明かりが灯っていた。唾を飲み込んだ拓真は、こめかみの血管が脈打つのを感じた。
(・・・・なに、なにビビってるんだよ)
エレベーターホールで深呼吸をして上階へ向かうボタンを押した。ゆっくりゆっくりと上がる箱の中に、ヒナギクの香りが充満する。
ポーン
3階で扉が開いた瞬間、自分が息を止めていた事に気付き苦笑した。
(いつもの調子で、いつもの・・・!)
そう思えば思うほど動悸が激しくなった。脇に汗をかいている。305号室の玄関扉の前で、大きく息を吸って深く吐こうとしたが、緊張で咽込(むせこ)んだ。インターフォンを押す、拓真の指に力が入った。
ピンポーン
(ん?誰だろう)
それを覗いた小鳥は、驚きで身動きが出来なかった。
(・・・・たっ、拓真!?)
インターフォンのモニターに映った人物は、仕事帰りのスーツ姿の拓真だった。小鳥は慌てて部屋着を脱いで、拓真からプレゼントされた、小花柄のワンピースを頭から被った。
(こっ、これは片付けて!)
小鳥は届いたばかりのユニコロの段ボールをベッドルームに運ぶとドアを閉めた。ローテーブルの上の飲み掛けのペットボトルとスナック菓子をキッチンに片付ける。
(・・・・・あ)
チェストの上にあった、
「は、はーい!」
玄関扉を開けると、気不味そうな面持ちの拓真が立っていた。その手には、見覚えのある花束を抱えていた。
「・・・・ヒナギク」
「お、おう。知ってたのか?」
「好きな花なの」
自身の選択が間違っていなかった事を知った拓真の顔は、晴れやかなものへと変わった。拓真は花束を小鳥の前に差し出した。
「ほれ」
「なにが、ほれ、なのよ」
「ほれ」
「ありがとう、でもなんで?」
小鳥は拓真に愛想のない振りをしながらも、内心、嬉しかった。ずっしりと腕に感じる花束の重みは、そのまま、拓真の思いを表している様だと思った。
「なんでって、昨夜」
「昨夜、なに?」
「・・・・・・昨夜」
そこで小鳥も、激しく抱き合った口付けを思い出し、顔を赤らめた。
「ゆっつ、昨夜ね!」
「あ、あぁ、昨夜な!」
「ゆっ、昨夜のインド料理、美味しかったね!」
「あ、あぁ。美味かったな!」
なんとも気不味い。その時小鳥は、拓真の手に、パティスリーの箱がある事に気が付いた。
「拓真、部屋寄ってく?」
「あ、あぁ。これ、美味そうだったから買って来た」
「わー、ありがとうお茶淹れるね(棒読み)」
「邪魔するわ」
平然を装うが、2人の動きはどこかぎこちなかった。
「どうぞ、好きなとこに座って」
「ここにか?」
「それはテーブル!下らない事、言わないで!子どもみたいな事しないの!」
「へいへい」
小鳥はヒナギクの花束を、シンクのタライに浸けた。水を注ぐ音がリビングに響いた。
「なに、花、花瓶に入れねぇの?」
「明日、昼休みにでも花瓶買って来る」
「あぁ、デカいしな」
ただ、ペットボトルでも、鍋でも、ヤカンでも、ヒナギクを活ける事はいくらでも出来た。それどそれは
「えええ!なにこれ!桃のケーキ!美味しそう!」
「季節のケーキだとよ、美味そうだろ」
「桃も好き!」
「おまえは好きなものだらけだな」
「拓真もす・・」
思わず、「拓真も好き」だと、口から言葉が転がり出そうになった。いや、違う。目の前のソファで脚組みをしているこの拓真は、
「俺がどうしたんだよ」
「いやいやいや、なんでもない」
「途中で止めんなよ、気持ち悪いだろ」
「ごめん、ついうっかり」
ヤカンが湯気を立て始めた。小鳥が、ステンレス製の手動グラインダーで珈琲豆を挽き、ドリップの準備を始めた。芳醇なコーヒーの香りが心地良い。
「拓真、ブラックコーヒーで良い?」
(・・・・あ!しまった!)
「あぁ、ブラックで」
「ごめんね、砂糖もミルクも切らしてて」
「ブラック好きだし、なんもいらねぇ」
実際、キッチンには砂糖もミルクもあるが、スルスルと嘘が出て来る。小鳥は所々で露呈しそうになる、前の記憶を上手く誤魔化した。
(・・・・ふぅ、焦った。焦った)
そこで、ローテーブルに肘を突いた拓真が小鳥の顔を覗き込んだ。
「な、なに?」
「なにって、昨夜、おまえ嫌がんなかっただろ?」
「なにを」
「なにをって、キスだよ、恥ずかしいだろ、全部言わせんな」
「ご、ごめん」
小鳥はココアを一口飲み、拓真から目を逸らした。
「なぁ、もう俺ら付き合っても良いんじゃね?」
「そ、れは」
「もう1年だぞ、そんなに俺の事が信じらんない訳?」
「信じられないって?」
拓真は鳩に豆鉄砲、驚きを隠せない表情で小鳥を見た。
「なに、しれっと、そういう事言っちゃう訳?」
「だ、だって。分かんないんだもん!」
「おまえ、まじ椅子から落ちたのか?」
「お、教えてよ」
拓真は、ばつの悪そうな顔で唇を尖らせた。どうやら、拓真が小鳥を電車で見掛け、懸想(けそう)をしている間、同時進行で以前の恋人と繋がっていた時期があったと言う。
「え、二股じゃない!」
「なんでだよ!まだおまえと付き合ってもいねぇんだからセーフだろ!」
「アウトよ!アウト!」
小鳥は、拓真の粗雑で強引な態度を毛嫌いしたが、再三の告白に首を縦に振らないもうひとつの理由は、”二股交際疑惑”による不信感だった。2022年の”メビウスの輪”の小鳥は、そんな拓真の行為が許せなかったようだ。
(なるほど、それで告白にOKしなかったのか)
拓真は、黙々と桃を齧(かじ)っていた。
「・・・・で、その彼女の名前はなんて言うの?」
「今更、もう良いだろ」
「知りたい!教えてくれなきゃ!教えて!」
「教えてくれなきゃ、なんなんだよ」
「とにかく、教えなさいよ」
拓真は、フォークを白い皿に置いた。
「
「何歳?」
「27歳」
「年上じゃん!」
「会社の人?」
「もう、良いだろ!」
良くはない。2024年を変える為には、少しでも情報が欲しい。
「別の会社」
「何年間、付き合ったの?」
「4年間」
「うわ、大学生の時から?」
「そうだよ!もう良いだろ!」
大学生の時に付き合っていた年上の女性の存在。それは
(やっぱり・・・”メビウスの輪”の世界と向こう側の世界は少しづつ繋がっているんだ)
そうとなれば小鳥もそれに倣(なら)って行動を起こした方が良いのかもしれない。小鳥は、ベッドルームに置かれたユニコロの段ボール箱と、その中に詰められた思いを大切にしようと振り返った。