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第57話 迷いの小鳥③

 小鳥が濡れた髪をタオルで拭きながらリビングルームに顔を出すと、室内はなんとも形容し難い雰囲気に包まれ、どこか落ち着きが無かった。


「拓真、どうしたの?」

「どうしたのって?なにが?」

「なんだか変じゃない?」

「そう?」

「うん」


 小鳥の視線が部屋の隅に移動すると、トランクスが入っていたビニール袋と、茶色い紙袋が丸められ、ゴミ箱に捨てられていた。拓真が中身を取り出し、準備をしたに違いなかった。小鳥の頬は赤らんだ。


「そ、そうだ!ビール飲む!?」

「そうだな、飲むわ」

「ちょっと待ってて」

「おう」


 小鳥はゴミ箱の中身に気が付かぬ振りをして、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。そして、予(あらかじ)め冷蔵庫の中で冷やしておいたグラスと一緒に拓真の前に差し出した。温度差で白く曇ったグラスに2人の指の痕が付いた。


プシュ


 プルタブを引き上げると中身が飛び散った。


「あぁ、もう!」

「悪ぃ、持って来る時、振ったわ」

「駄目じゃん!」


 小鳥は小言を言いながら、キッチンダスターでローテーブルに飛び散ったビールの泡を拭き取り始めた。拓真はその横顔を眺めながら、ベッドルームの白い手帳に言及しようかと思い悩んだ。


「なに?あ、なにか出そうか?なに買ったの?」


 白いポリエチレンの袋の中はチョコレートやクッキーばかりだった。かろうじて、ポテトチップスと素入り食塩不使用アーモンドが一袋づつ入っていた。


「ポテトチップとアーモンド両方出す?」

「・・・・・・」

「拓真?」

「・・・・・・」


 拓真は心ここに在らずで、小鳥の声が、その耳に届いているのかさえも怪しかった。


「拓真!どうしたの?調子悪いの?」

「あ、あぁ。悪ぃ、なんか疲れた」

「バーベキューで?まだ25歳でしょ?おじさんみたいな事、言わないでよ」

「なぁ」

「ん?なに?」

「俺、10月で26歳になるんだよな?」

「当たり前じゃない、なに言ってるの?」

「そうだよな、なんでもねぇ」


 拓真はコップに注がれたビールを一気に飲み干すと、小鳥を凝視し、ゆっくりと顔を近付けた。脚がローテーブルに当たり、空になった缶ビールがコロコロと転がった。


「小鳥、俺が好きか?」

「なに、やめてよ」

「好きか?」

「やだ、恥ずかしい」


 その目は真剣で、拓真の瞳に息を呑む小鳥の顔が映った。


「俺が好きだと言ってくれ」


 その声は重く、そして陰があった。


「言ってくれ」


 拓真は小鳥の肩を抱き寄せると首筋に顔を埋めた。


「俺が好きだと言ってくれ」

「う、うん」

「ちゃんと言ってくれ」


 背中に回された拓真の腕にはきつく力が込められ、小鳥は息苦しささえ感じた。


「俺は小鳥が好きだ。小鳥は誰が好きなんだ」

「誰って?」

「誰が好きか、教えてくれ」


 どこか不安げなその声に、小鳥も白い腕を拓真の背中に伸ばして力強くTシャツを握り締めた。


「拓真が好き、拓真が一番好き」

「そうか」

「うん、大好き」

「そうか」

「うん」


 拓真の手は小鳥の脹脛(ふくらはぎ)を何度も摩(さす)り、太腿(ふともも)を撫で上げた。背中に添えられた腕が熱を持ち始めた。首筋を這い回る舌先は頸(うなじ)を辿り耳朶(みみたぶ)を軽く喰(は)んだ。


「・・・・!」


 小鳥は漏れ出そうな嬌声(きょうせい)に耐え、頬をより一層、赤く染めた。拓真の指先はナイトウェアの裾を捲り上げると両胸の突起を探して這い上がった。


「・・・・あっつ」


 膨らみ掛けたそれを念入りに揉みしだかれた小鳥は、熱い吐息で両脚を拓真の腰へと絡ませた。拓真は無言のまま小鳥の腕を引き揚げ、立ち上がらせた。


「来いよ」

「・・・・・」


 薄暗いベッドルームでTシャツを脱いだ拓真は、ベッドに座らせた小鳥の衣類を1枚、また1枚とゆっくり剥いでいった。次第に顕になる、柔らかな白い肌に、拓真の喉仏が上下する。拓真は、頭上にある白い手帳の存在を脳裏から掻き消す様に、小鳥をマットレスに押し倒した。


「・・・・あっ」


 拓真は、指先に力を込めた。


(拓真って、誰だよ!)


 膨らみを揉みしだく手のひらが、激しく小鳥を揺さぶった。


って、なんなんだよ!?)


「・・・・あ」


(俺じゃないのかよ!)


 不意に拓真の手の動きが止まり、密着する肌から静かに熱が引き始めた。


「た、拓真?どうしたの?」

「・・・・・」

「え!?な、泣いてるの!?」


 小鳥の首筋に生温かい雫が流れ、枕カバーに染みを作った。


「泣いてなんかいねぇし」

「だって・・・・・・・」

「コンタクトにゴミが入ったんだよ」

「拓真、眼鏡でしょ」

「うるせぇ」


 拓真は手の甲で目尻を拭うと小鳥を見下ろした。


「俺は小鳥が好きだ」

「うん、知ってる」

「おまえも俺が好きだ」

「うん、好き」

「なら、問題ねぇな」

「うん?」


 小鳥に軽く口付けると、その身体はマットレスへと沈み込んだ。


ギシっ


「小鳥」

「なに?」

「今夜はこれまで、もう疲れた。寝ようぜ」

「い、良いの?」

「良いもなにも明日、仕事だしな」

「そ、そうだね」

「なに、続き希望?」

「そ、そんなんじゃないし!」


 拓真の口から、大きな溜め息が漏れた。


「拓真、なんだか変じゃない?」

「変なのはいつもだろう」

「そうか」

「そうか、じゃねぇよ!」


 小鳥は戯(おど)けながらも、ルームランプに照らし出された暗い面差しに一抹の不安を感じた。


(・・・・・なんだかいつもと違う)


「明日の朝、アパートまで送って行こうか?」

「いや、いい。始発で帰るわ」

「間に合うの?」

「明日は営業先に直行だから、時間はある」

「そう、分かった」

「寝るぞ、明るいと眠れねぇから、それ、消して」

「うん」


 拓真は壁際に寝返りを打って口を噤(つぐ)んだ。小鳥は月面のクレーターを模ったルームランプに手を伸ばした。


(・・・・・・・え、これ)


 振り返ったその背中は、なにも語らず寝息を立てていた。





 翌朝、手で触れると小鳥の隣のシーツはヒヤリと冷たかった。以前、が霞(かすみ)の様に消えた朝を思い出し、急いで身を起こすとやはりリビングルームに人の気配は無かった。


「拓真!?」


 ただ、そこには服を着替えた形跡があった。


(まさか・・・・!)


 拓真の、玄関に揃えられていた黒いスニーカーは見当たらない。小鳥は慌てて携帯電話を手に取った。


(2022年7月8日、良かった・・・・タイムリープはしていない)


 安堵の溜め息を吐き、LIMEのトーク画面を開いた。



おはよう


おっす はよ 既読


早起きだね


おまえが遅いんだよ 既読


ひどい!


寝相と寝言すげぇな 既読


そんなにすごかった!?


電車来たから またな 既読



(良かった・・・・拓真もいる)


 拓真は消えてはいなかった。然し乍ら、そこには戸惑いが隠せない面立ちの小鳥がいた。ゆっくりと踏み出す足にフローリングが軋んだ。昨夜、小鳥はベッドボードの棚に異常を感じた。


「・・・・・・・・」


 ゴクリと唾を飲む。ベッドボードの棚に置いてあった文庫本の並び方が違っていたのだ。それは1巻から6巻まで順番に並べてあった筈だ。


(1巻、3巻、2巻、6巻、5巻、4巻、バラバラだ・・・・)


 そして、白い手帳の1ページに折り目が付いていた。


(拓真は、これを見てしまった・・・・どうしよう)


 は、小鳥がタイムリーパーである事を受け入れた翌朝、姿を消してしまった。


(どうしよう、どう説明したら良いの!?)


 もしかしたら、も霞(かすみ)の様に消えてしまうのではないか?小鳥は怯え、出口の無い迷路の中を彷徨(さまよ)い始めた。

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