8月24日、正午。2年後のこの日、この時間に、
「小鳥さん、ランチご一緒しても良いですかぁ?」
振り向くと、そこには路面販売店の後輩の笑顔があった。
「あ、うん。お疲れ様。お客様はどう?落ち着いた?」
「こんな暑い時間帯は誰も来ませんよぅ」
「そうだね、確かに暑いよね」
一方通行の車道を真っ赤なフォルクスワーゲンゴルフが通り過ぎた。巻き上げられた熱気が排気ガスと混ざり合い、小鳥のサンダルに纏(まと)わり付いた。
「小鳥さん、なに食べてるんですか?」
「ランチプレート。今日のベーグルはアボガドシュリンプ、クリームチーズ。デザートは杏仁豆腐」
「杏仁豆腐!ここのオーナーさんのチョイスっていつも微妙ですよね」
「桃のソルベとか、さっぱりしたメニューが良いよね」
「まぁ、ワンコインの魅力には敵いませんけれど」
結局、後輩も同じランチプレートをオーダーした。そしてアイス烏龍茶を啜(すす)りながら、小鳥を上目遣いに見た。
「小鳥さん」
「ふぁに?」
「そんな呑気な顔で、ベーグル食べている場合ですか?」
「・・・・ん、なにどういう意味?」
小鳥は紙ナフキンで口角のクリームチーズを拭い取り、アイスティーのストローを咥(くわ)えた。
「高梨さん、お店にぜんっぜん来ないじゃないですか?」
「そ、そうだね。来てないね」
「そんなに営業って忙しいんですか?LIMEはしているんですよね?」
「連絡は取ってるけれど」
確かに連絡は取り合っている。毎朝の挨拶、その日にあった事、おやすみのスタンプ、けれどLIMEでの通話はしていなかった。
「先月のバーベキューからもう1ヶ月ですよ!?長距離恋愛じゃないんですから!」
「長距離恋愛」
「待つ女じゃ駄目ですよ!小鳥さんもグイグイ行かなきゃ!」
「このままじゃ、駄目かなぁ」
「駄目ですよ!高梨さんと、自然消滅しちゃっても良いんですか!?」
「自然消滅、そんな事、考えてなかった」
「考えなきゃ駄目ですよ!」
小鳥のグラスの中で、最後の氷の欠片(かけら)が解けて消えた。後輩が小さな溜め息を吐いた。
「小鳥さん、胡座(あぐら)かいていませんか?」
「どう言う意味?」
「気分悪くしたらごめんなさい。小鳥さん、高梨さんが”なにがあっても自分の事を好きでいてくれる”とか思ってません?」
「そんな風に、見えるかな」
「・・・・ちょっとだけ、そう見えます」
後輩が痛い所を突いて来た。その通りだ。
(そうだ、”メビウスの輪”の世界の拓真は違うのかもしれない)
小鳥は携帯電話を取り出してLIME画面を開いた。
拓真お疲れさま
会えないかな
「小鳥さん、高梨さんにLIMEしたんですか?」
「うん、既読にはならないけど」
「今はお仕事中ですよ!大丈夫ですよ!」
ところが、そのLIMEメッセージに既読が付く事は無かった。
(まさか、既読無視とか)
ショルダーバッグを肩に掛けた小鳥は小走りで駅へと向かった。
(嘘、大丈夫、大丈夫だよね!?)
これまで、保険営業の合間に、店舗に顔を出す拓真の事を煩(わずら)わしいと言いつつも、いつの間にか心待ちにしている自分が居た。このレンガ畳の舗道を2人並んで歩く事が当たり前だと思っていた。駅の改札、階段を上り電車に乗り込む。たわいの無い会話、全て終わりを迎える事など思いも寄らなかった。
(・・・・まだ、仕事中かな)
パティップの時計の針は18:00を指していた。吊り革に掴まる右側が寂しい。小鳥を乗せた電車はいつもの駅を通り越し、拓真が降りる駅へと向かった。
(そうだ。私、1度も拓真のアパートに行かなかった)
2人の逢瀬は、小鳥のアパートばかりだった。小鳥自身、「拓真のアパートに行きたい」とは言わなかった。過去に何度も訪ね、見知ったあの部屋だと思うと然程(さほど)行きたいとも思わず、例え車で拓真をアパートまで送ったとしても、道路の路肩で別れていた。
(もしかして、興味がないと思われていた?)
拓真に対して、胡座(あぐら)をかいているのではないかと言った、後輩の言葉が脳裏で渦を巻いた。
(私、拓真に酷い事をしていたんじゃない?)
しかも、あの白い手帳の事を弁明する事もなく、中途半端に遣り過ごしていた。そう考えた小鳥は気ばかりが焦り、乗り継ぎのホームでは次の電車の到着をとても遅く感じた。
(どうしよう、どうしよう!)
乗り継ぎの電車に飛び乗った小鳥は、初めて見る夕暮れの景色と、窓に映った怯える自分の面立ちを交互に凝視した。足元が落ち着かず、爪先立ちを繰り返す。そして、もしかしたら拓真も同じ車両に乗っているのではないかと背伸びをしてみたが、吊り革に掴まる横顔、椅子に座る面差しは、見覚えのないビジネススーツの男性ばかりだった。
(でも、拓真に、なんて言えば良いの!?)
(どうしよう!?)
小鳥のパンプスの音が住宅街に響き、それに気付いたわん太郎が激しく吠え出した。
(どうしよう!?)
拓真のアパートを見上げた小鳥の脚は、ゆっくりとコンクリートの階段を上った。もし、もし、LIMEメッセージが既読無視でアパートの部屋に拓真が居たらどんな顔をして、どう声を掛ければ良いのか、小鳥は迷った。2階の廊下、1番奥の5番目の扉。意を決した小鳥は、502号室のインターフォンを押した。
ピンポーン
反応はない。
ピンポーン
やはり反応は無かった。小鳥はその扉に寄り掛かり、拓真の帰りを待つ事にした。既視感(デジャヴ)が押し寄せる。
(あの日は、寒かったな)
(・・・・暑い)
けれど今、廊下にはアブラゼミの鳴き声が響いている。今日は首筋に汗が流れ、髪が貼り付く程に蒸し暑い。まるで、風の止んだ凪(なぎ)の夕暮れだ。ポリエステルのワンピースの裾が脹脛(ふくらはぎ)に纏(まと)わり付いた。
(遅いな、接待か飲み会、まさか出張じゃないよね?)
相変わらずLIMEメッセージは既読にならず、時計の針は21:00をとうに過ぎていた。暑さによる喉の渇きと疲労感に、ズルズルとコンクリートの廊下に座り込んだその時、階段を上がって来る革靴の足音と、女性の声が聞こえて来た。