シルキーボイスの落ち着いた女性の声は、階段の踊り場で一旦静かになった。そして、再びゆっくりと階段を上って来た。革靴の音に続き、パンプスの軽やかな音が響いた。
「・・・・・え」
2人の影は寄り添い、手を繋いでいた。その姿を目にした小鳥の足は、コンクリートの中に沈んだ。ワンレングスの長い黒髪の女性は、白いカッターシャツに身体のラインに添った黒いタイトスカートを履いていた。明らかに、年上の女性の魅力を醸(かも)し出している。
「た、拓真」
「小鳥・・・・・・なんで」
「話したい事があったんだけど、LIMEの返事が無かったから」
「悪ぃ、見て無かったわ」
(既読・・・無視?)
その女性は拓真に耳打ちすると踵を返して階段へと向かった。拓真は女性を振り返り、その名前を呼んだ。
「
「ありがとう。おやすみなさい」
明美、小鳥はその名前に聞き覚えがあった。
(・・嘘・・まだ付き合っていたの?)
「拓真、あの人とは、もう付き合っていないって言ってたじゃない」
「小鳥、部屋に入って」
「付き合っていないって!」
小鳥の悲痛な声が廊下に響いた。
「部屋に入れよ」
「拓真、どうして」
小鳥の目頭は熱くなり、気が付けば生温い涙が頬を伝っていた。玄関扉を施錠した拓真は無言で部屋の電気を点けた。
(・・・・・・・あ)
目の前に広がる懐かしい部屋、シトラスグリーンノートが仄(ほの)かに香るシダーウッドの匂い。
「そんな所に立ってないで、座れよ」
「・・・・・・・」
「そこで話すつもりか?」
「・・・・・・・」
「
小鳥はパンプスを脱ぐとソファに腰掛けた。
ギシっ
驚いた事に、”メビウスの輪”の世界の拓真の部屋も、2023年、2024年の拓真の部屋と寸分たりとも違わなかった。壁に掛かった損害保険会社のカレンダー、濃灰のファブリック、黒で揃えた家具家電、全てが同じだった。
「なにジロジロ見てんだよ」
「・・・・・あ」
「初めてだしな、おまえ、
「それは」
「どうせ俺の事なんて興味、無かったんだろ」
「・・・・そんな事!」
やはり拓真はそう感じていた。それもそうだ。恋人の部屋に行きたいと言わない女性が居るだろうか、答えは、
「そんなつもりじゃ無かった」
「じゃあ、どんなつもりだったんだよ!」
「それは、えっ・・・・・と」
カーペットで胡座(あぐら)を組んでいた拓真の顔付きが鋭いものへと変わった。両腕を組んで前屈みになり、大きく息を吸うと大きく吐いた。
「小鳥は
「・・・・・・それ」
「悪ぃけど、おまえの部屋で手帳を見た」
「見たんだ・・・・」
「見た、なんか日記帳みたいだったけど、おまえ、頭、大丈夫か?」
「大丈夫って、なにが?」
「2023年とか28歳とか、プロポーズも2回もされてたし。気味悪ぃよ」
「・・・気味が、悪い?」
「あの
「・・・・・ち、違う」
小鳥は、これまでの記憶を全て否定された事に衝撃を受けた。
「前から可笑(おか)しいと思ってた。なんか、どっか遠くを見てるっつうか。そいつと俺を比べてたんだな」
「比べてなんかいない!」
「ほら、やっぱり他に男が居たんじゃねぇか」
「拓真は拓真だから!比べてなんか居ない!」
「てめぇ、ふざけんな!」
その粗暴な言葉遣いに、受け言葉に書い言葉。小鳥の語尾も自然と激しいものになった。
「
「なんだよ、たちって、他にもまだ居るのかよ!」
「拓真は、拓真だよ!」
「はぁ!?」
「拓真は、拓真だよ!」
小鳥はショルダーバッグから携帯電話を取り出した。その一風変わった形状を見た拓真は、怪訝な面立ちになった。
「なに、おまえ・・・・そんなaPhone売ってたか?」
「これは2023年のaPhoneだよ!」
「2023年?なんだよそれ?」
「私は2024年から来たの!」
「おまえマジ頭、おかしいんじゃね!?」
暗証番号を打ち込むとホーム画面が表示された。そこには、happy halloween の看板の前で、ピースサインをする小鳥と
「なんだよ、これ。俺・・・・知らねぇぞ?」
「この人が
「どういう事だよ、これ、俺じゃねぇか」
小鳥はカメラロールを開いて2024年の未来を、拓真に見せた。そこには、白い手帳に記されていた出来事がそのまま画像となって残っていた。
「これ、俺なのか?」
「信じなくても良いけれど、これが2024年の
「こんな馬鹿な話があるのかよ」
「目の前に
「じゃあ、おまえは小鳥じゃないのか?髪型が違わねぇか?」
「中身が違うだけ」
「違うだけって、なにしれっと言ってんだよ!」
「中身は2024年の須賀小鳥なの」
「じゃあ、俺の好きな小鳥じゃないのか?」
「・・・・・・・・・・・多分」
「多分って、多分って、なんなんだよ!」
小鳥は、携帯電話を拓真の手から取り上げると、ショルダーバッグに入れて立ち上がった。
「もう別れよう!浮気する拓真とは付き合えない!」
「浮気って、たった一晩だけじゃねぇか!」
小鳥は、腹の奥底から怒りが込み上げて来るのを感じ、それは一瞬にして爆発した。
「一晩!?一晩でも、明美さんとセックスするつもりだったの!?」
「酔った勢いだよ!」
拓真のその唇には、薄らと深紅の口紅が付いていた。あの、階段の踊り場で足音が止んだのは2人が口付けをしたからに違いなかった。怖気(おぞけ)が走った。
「さよなら!」
小鳥は、吐き捨てる様に別れの言葉を告げてパンプスを履いた。背後(うしろ)で慌てて立ち上がる気配がし、拓真がその腕を握った。
「待てって!」
「待たない!」
「小鳥!」
「離して!触らないで!」
振り返った頬には涙が伝い、厳しい面立ちで眉間にはシワが寄っていた。小鳥は拓真の手を力任せに振り解き、睨み付けた。その怒りに拓真は一瞬怯んだが、階段を駆け降りる小鳥の寂しげな背中を追い、革のサンダルを足先に突っ掛けた。
「待てよ!小鳥!おい!」
慌てふためいた拓真のサンダルは階段を踏み外し、バランスを崩した。つんのめった拓真はあわや転落というところで手摺(てすり)に掴まり、かろうじて事なきを得た。
「あっ、危っね!」
心臓が跳ね、膝(ひざ)が震えていた。両膝に手を突き顔を上げるとそこに小鳥の姿があった。小鳥は路肩の縁石に立ち、左右を確認している。激しく吠える隣家の柴犬の鳴き声が耳にうるさい。
「小鳥、ちょっ、待てって!」
小鳥の身体が横断歩道に飛び出し、拓真もそれに続いた。その時、向かいの路地から白い塊が転がり出た。光を弾く金色の眼、長い手足、細い尻尾の三毛猫だった。拓真の目にはそれがスローモーションの様に映った。
「・・・・・・・・!」
拓真は、横断歩道の中央で立ち止まった。ハイビームのヘッドライトと激しいクラクション、右に大きくハンドルを切った黒いワンボックスカーは、柴犬が吠える外壁に衝突した。振り向いた小鳥の目が見た物は、電柱1本分遠くへと飛ばされた革のサンダルだった。