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第60話 メビウスの輪

 黒いワンボックスカーの運転席にはエアバッグが飛び出し、運転手はそれに挟まれ突っ伏したまま動かなかった。横断歩道に倒れた拓真は呻き声を漏らしながら歪な形で横たわっていた。


「・・・・・嘘、嘘!」


 車道に四つん這いになった小鳥が拓真の背中を揺すると、頭部から出血しているのが分かった。両の手のひらを濡らす濁った赤黒い血液に、小鳥の腕は震えた。


「事故だ!」

「おい、大丈夫か!?」


 後続車両が次々に停車し、ハザードランプを灯した。それは夜空を飛び交う蛍の様に見えた。


「たく、拓真、拓真、大丈夫!?拓真、返事して!」


 自動車のヘッドライトが、青褪めた表情でアスファルトに座り込んだ小鳥と、ぴくりとも動かなくなった拓真の背中を白く照らし出した。そして、拓真の身体を揺すり続けた小鳥は、ドライバー達に羽交締めにされ、引き離された。


「この人、頭を打ってる!あんた、触っちゃ駄目だ!」

「救急車!」

「救急車と警察に電話して!」


 黒いワンボックスカーから、意識が朦朧(もうろう)とした運転手が数人の男性の手で引きずり出された。そして車道に仰向けに寝かされたが、やがてその脈拍が止まった。


「おい!おい!大丈夫か!?」


わんわんわん! わんわんわん!わんわんわん! わんわんわん!


 その慌ただしさに吠え続けたわん太郎は、飼い主の手により、家の中へと連れて行かれた。


「心肺蘇生出来る人、居ませんか!」

「コンビニだ!コンビニにがあるぞ!」

「誰か呼んで来て!」


 表通りのコンビニエンスストアからAED(心肺停止の際、電気ショックを与え、心臓の拍動を正常に戻す救命器具)が届いた。店長と思しき人物が、運び出された男性の救命処置を始めた。シャツをはだけた男性の胸部に通電すると、その都度、心臓が止まった胴体が跳ね上がった。


「おい!なに勝手に撮ってるんだ!」

「やめろ!」


 近隣の心無い若者が、携帯電話を取り出して事故現場の動画を撮り始めた。その輪の中心に座り込んだ小鳥は、横たわる拓真を見下ろす目と目に縋(すが)り付いた。


「た、助けて下さい」

「お姉さん、この人、頭を打ってるから動かしちゃ駄目だ」

「助けて」

「救急車が来るから、それまでの我慢だよ」

「お願い!拓真を助けて!」


 男性は首を横に振った。やがて救急車と警察車両が赤色灯を回しながら事故現場で停車した。


「そーれっ!」


 ネックカラーで頭部を固定された拓真はストレッチャーに乗せられ、救急車のハッチバックが閉まった。警察官が事故現場の交通整理を始め、停車していた自動車は次々に走り去った。


「えーと、あなたの名前は?」

「須賀小鳥です」

「被害に遭われた方とのご関係は?」

「・・・付き合っていました」

「事故に遭われた方の住所氏名年齢を教えて下さい」


 対向車線では、コンビニエンスストアの店長も事情聴取を受けている。


「名前は、高梨拓真、25歳、住所は・・・このアパートの205号室です」

「ご実家や連絡のつくご家族はご存知ですか?」

「・・・はい」


 小鳥は携帯電話を取り出すと、拓真の実家の電話番号と住所を警察官に伝えた。


「たく・・高梨さんは、どこの病院に運ばれたんでしょうか?」

「ちょっと待って下さいね」


 警察官は無線で遣り取りをした後、「県立中央病院の救急科だそうです」と言った。「ありがとうございます」「乗って行かれますか?」その手はパトカーの後部座席を示していた。


「・・・お願いします」


 小鳥は後部座席のサイドウィンドーに流れる夜の景色を茫然と眺めた。


(・・・まさか、まさか自分が原因で拓真が事故に遭うなんて)


 警察官は救急隊員から事情を聞き取る為に運転席を降り、小鳥は覚束(おぼつか)ない足取りで薄暗い病院の廊下を進んだ。救急科と表示された電光掲示板には赤いランプが点灯していた。治療室内からは、その緊迫感が伝わって来た。


 どれ程の時間が経っただろうか、慌てた足音がこちらに向かって駆け寄って来た。拓真の父親と母親だった。長椅子に座っていた小鳥が立ち上がると、母親は深々とお辞儀をした。


「・・・・?」

「あなたが救急車を呼んで下さったんですね!」

「え」

「ありがとうございます!」


 父親も頭を下げ、救急科の扉を不安げに見た。そうなのだ、”メビウスの輪”の世界では、小鳥と拓真の両親は出会っていない。


知らない存在なのだ


 奇(く)しくも8月24日。の四十九日の晩、は交通事故に遭い、翌朝早くに治療の甲斐も虚しく、25歳の人生を終えた。



ミーンみんみんジー ミーンみんみんジー

ミーンみんみんジー ミーンみんみんジー



 白いハンカチで首筋の汗を拭う。黒真珠のネックレスが襟足の髪に絡みついて不快感を覚えた。躑躅(つつじ)の垣根を左に曲がると、白い壁、茶色い屋根、レンガに囲まれた拓真の自宅がある。


(また、またこの場面だ)


 黒と白の鯨幕(くじらまく)が張られたの通夜、小鳥は息を呑んだ。


(今度は、今度は私が原因で拓真が死んだ)


 小鳥が白い陽炎の中に立ち尽くしていると、親戚の人が「お入り下さい」と背後(うしろ)から声を掛けた。


(前にも、見た)


 三和土(たたき)には黒い革靴やパンプスが並び、その中央には、2足の草履が揃えられていた。奥の座敷には、豪奢(ごうしゃ)な袈裟(けさ)を着た僧侶が並んで座っている。小鳥は香典を手渡すと祭壇の前に進み、お香を上げてコーラルピンクの数珠を握った。


(拓真、ごめんなさい!)


 後悔に苛(さいな)まれた小鳥はハラハラと涙を溢し、その姿に拓真の両親は、目頭をハンカチで押さえた。


「この度はご愁傷様でした」


 小鳥が畳に手を突き深々と頭を下げると、「生前はお世話になりました」「ありがとうございました」と他人行儀な言葉を掛けられた。


「・・・・いえ、こちらこそ。ありがとうございました」


 そこで視線を上げるとそこには田辺明美の姿があり、拓真の母親の背中を摩(さす)っていた。膝の上には、黒猫のべべが丸まっている。


(・・・べべ)


 するとべべは「シャーっ!」と牙を剥き、毛並みを逆立てて立ち上がり一目散に2階への階段を駆け上がって行った。


(べべも、”メビウスの輪”のべべなんだ・・・)


 項垂(うなだ)れた小鳥が拓真の通夜を後にすると、「小鳥ちゃん!待って!」と黒い革靴が追いかけて来た。


「佐々木さん」

「小鳥ちゃん。大変、だったね」

「・・・はい」

「拓真は、小鳥ちゃんの事、ご両親には話していなかったみたいだから」

「そう、だね」

「僕になにか出来る事があったら連絡して」


 佐々木隆二は胸ポケットから名刺入れを取り出すと、その1枚を小鳥の手に握らせた。


「ありがとうございます」

「1人で抱え込んじゃ駄目だよ」

「・・・はい」

「なにかあったら連絡してね」

「・・・はい」

「じゃあ、お経が始まるから」

「はい、ありがとうございました」

「またね」

「・・・はい」



ミーンみんみんジー ミーンみんみんジー

ミーンみんみんジー ミーンみんみんジー



 アパートの部屋のハンガーラックに掛けられた漆黒のワンピース。小鳥はベッドに身を投げ出し、窓越しの青い空をぼんやりと眺めていた。明日になれば、拓真は荼毘(だび)にふされ、その入れ物(からだ)は白い煙となって空へと消える。


(・・・私が、私のせいで、拓真が事故に遭った)


 本末転倒。拓真を交通事故から回避させる為にタイムリープを試みた筈が、その真逆で最悪の結果を迎えてしまった。小鳥の目頭は熱く、とめどなく涙は溢れた。


(ごめん、ごめん、拓真、ごめん)


 気が付けば日は沈み、辺りは暗闇に包まれていた。


(・・・ごめん)


 拓真を失い、悲嘆に暮れる小鳥だったが、その姿を冷静な目で見るもう1人の小鳥が居た。


(もし・・・もし、もしも今度・・・)


 もう1人の小鳥は、次に訪れるタイムリープについて考えていた。これまで拓真が小鳥の人生から消える、その時にタイムリープという現象が起きる。


(今度、今度は)


 との別れを迎えた小鳥が、の生きる世界へと時間を飛び超える可能性は非常に高い。


(今度。今度、拓真と出会った時、私は拓真の人生から)


 小鳥は、(もし、と出会っても、なるべく関わらないように距離を置こう)と、心に決めた。そして、(2024年の7月7日のあの横断歩道を渡る背中だけは守ろう)、そう心に誓った。

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