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第2部 第1章

第62話 夜明けの小鳥

一筋の日差しが薄暗い部屋に線を作る。掛け布団に包まった亜麻色あまいろの髪を三つ編みにしていた。羽根枕をしっかりと抱きしめ、情けない事に口角に涎(よだれ)を垂らしている。


ピピ ピピ ピピ ピピ


 携帯電話のアラームが起床時間を報(しら)せたが、その耳は貝の様に塞ぎ知らん振りだった。階下からその名前を呼ぶ声が聞こえる。


「小鳥!小鳥、起きなさい!今日は一限から授業があるんじゃないの!?」

「んあ〜、は〜・・・・・・・・」

「小鳥!学校に遅刻するわよ!」

「んあ〜・・・・・・・・・・・」

「起きなさい!」


(・・・え、遅、遅刻・・・・遅刻?学校!?)


 ようやく小鳥と呼ばれたはベッドの上で飛び上がった。


「学校!?」


 見回したそこは小鳥のアパートの部屋ではなく、見慣れた自宅の小鳥の部屋だった。小鳥は机の上の黒眼鏡を掛け、姿見の前に座り込んだ。そこに映っていたのは、三つ編みの髪を胸まで垂らしたあどけない面差しだった。


「小鳥!いい加減起きなさい!」


 部屋のドアが勢いよく開き、少しばかり若い母親が小言を言った。小鳥は反射的に、「いきなり開けないでよ!」と高校生の様な言葉を口走っていた。


「・・・・なんだ、起きてるじゃない、返事くらいしなさいよ」

「お母さん」

「なに、変な顔して」

「若いね」

「褒めてもなにも出ないわよ?」


 小鳥は息を呑んだ。


「お母さん、質問しても良い?」

「どうぞ」

「今は何年ですか?」

「何年?西暦何年って事?」

「うん」

「2015年、それがどうしたの」

「・・・・に、にせん、じゅうごねん」


 ベッドの上に放り投げた携帯電話を見ると、2015年4月04日と表示されていた。小鳥は2024年から、9年の時を超えていた。


「お母さん、質問しても良い?」

「どうぞ、手短にね」

「ちなみに私はどこに遅刻するんでしょうか?」

「大学よ、当たり前じゃない」

「北國学園」

「そうよ」

「うっ、嘘ぉぉぉぉぉぉ!?」

「嘘もなにも、早く朝ご飯食べちゃって!片付かないから!」


 小鳥は驚きを隠せなかった。


「じゃあ、18歳!?高等学校、卒業したばっかり!?」

「先週、卒業旅行から帰って来たでしょ」

「嘘、嘘、嘘、嘘でしょう!?」


 小鳥は2015年にタイムリープしていた。しかも携帯電話はaPhone6、当時、小鳥が使っていた物だ。当然、拓真の画像は1枚も無い。


「良いから、早く着替えて来なさい!」


 呆れた母親は部屋のドアを勢いよく閉めた。


「お祖母ばあちゃん、いくらなんでもこれは飛びすぎです」


 そこで小鳥はハッ!と気が付いた。小鳥の祖母が他界したのは2017年、小鳥が大学3年生の晩秋の事だった。ベッド周りを探してもパティップの腕時計は見当たらない。


(ない、ない!時計がない!)


 慌てた小鳥は階段を勢いよく駆け下り、思わず数段を踏み外しそうになった。


「小鳥!騒がしい!落ち着きなさい!」

「ごめんなさい!」


 小鳥は、渡り廊下を小走りに、奥の和室の襖(ふすま)の前で仁王立ちした。大きく息を吸って深く吐く。


「お、お祖母ばあちゃん?」


 一呼吸、間を置いて、穏やかな声色が小鳥の名前を呼んだ。


「あら、小鳥ちゃん。今日は早起きね」

「お祖母ばあちゃん、入って良い?」

「良いわよ、なに、そんな改まって」


 ゴクリと唾を飲み込み、襖をゆっくりと開けるとそこには他界した筈の祖母が和かに微笑んでいた。小鳥は腰が抜けるかと思った。


「どうかしたの?変な顔をして」

「う、うん。おはよう」

「おはよう」

「お祖母ばあちゃん、元気?」

「元気よ?」

「そ、そうだよね」


 血管が浮き上がり、筋張った祖母の左の手首には、パティップの腕時計がピンクゴールドの光を放っていた。


(そうだ、この時計は未だお祖母ばあちゃんの物なんだ)


 という事は、小鳥は2017年の生前贈与で祖母からこの時計を譲り受けるまで、タイムリープをする事が出来ない。


「小鳥ちゃん、今日は学校に行く日じゃないの?」

「う、うん。じゃ、じゃあね」

「はい、気を付けて行ってらっしゃい」

「うん、行って来ます」


 小鳥は苦笑いをしながら洗面所に行き、顔を洗った。コンタクトを入れる。確かに頬は丸みを帯び、幼い顔をしていた。


「小鳥!早くしなさい!」

「あ、うん!」


 今度は階段を駆け上がり、母親に「埃が立つ!静かに!」と注意されてしまった。部屋のドアを閉める。


「ど、どうしたら!いや、どうしたらじゃない!だ、大学!大学に行かなきゃ!」


 小鳥はクローゼットを見て落胆した。


「・・・・だ、ださっ」


 そこに掛かっていたのは、燻(くす)んだ水色のブラウスに紺色のトレーナー。チェストの中にはデニムのジーンズとタイトスカートが畳まれ、野暮ったいの一言だった。


「なんでこんなの着ていたんだろう」


 数年後、アパレルメーカーに勤務小鳥にとっては耐え難いデザインのラインナップだった。


「小鳥!早くしなさい!本当に遅刻するわよ!」

「は!はーーーーい!」


 小鳥は取り敢えず無難なブラウスにカットソーのカーディガンを羽織りデニムのタイトスカートを履いた。悲しい事にストッキングやタイツの類は無く、引き出しに入っていたのは、くるぶし丈の綿の靴下ばかりだった。


「・・・絶対!バイト料で買い替える!」


 大学1年生の小鳥はドーナツショップでアルバイトをしていた。そこで小鳥は、この地味で野暮ったい服を買い替えようと心に誓った。


(・・・ん?いや、待てよ?)


 その時、が北國経済大学のライブラリーセンターで言っていた事を思い出した。


『小鳥ちゃんが目立たなかったのは、素朴な服を着ていたからじゃない?』


(いや!素朴にしても女子大生がこの服!あり得ない!)


 多少、未来が変わっても致し方ない!そこでふと思った。


(・・・拓真は、拓真はこの世界に居るよね!?)


「小鳥!ぼんやりしていないで早く食べなさい!」

「あ、はい!」


 口の端から目玉焼きの白身を垂らした小鳥は、慌てて味噌汁の茶碗を手に持った。

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