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第64話 ドーナツの輪

 甘いバニラエッセンスと濃厚なバターの香りが漂うドーナツショップ。丸いドーナツ生地が160℃に熱した油の中でふっくらと膨らみ始める。


ピピピピピ


 ドーナツの輪をトングでゆっくりひっくり返すと、程よくきつね色に揚がったドーナツ生地が、油の中にぷかぷかと浮かんだ。ショップオーナーはそれらを1個、2個と丁寧な手付きで金属トレーに並べていった。


「小鳥ちゃん、揚がったよ」

「はい!」

「熱いから気を付けてね」

「はい!」


 小鳥は熱々のドーナツにココアパウダーやシュガーパウダー、ココナッツを振り掛け、冷ましたドーナツにアイシングでレース模様を書くといった仕上げを担当している。


「いらっしゃいませ」


 間口は狭く、古民家を改築したドーナツショップは隠れ家的存在だが客足は絶えない。


カランカラン


 そこに1人の客が現れた。


「よっ!頑張ってるじゃん」

「結、来てくれたの!?」

「いやぁ、あんたみたいに”ぼんやり”している子がバイトとか!そりゃあ、見てみたくなるでしょ?」

「なに、人を天然記念物の動物みたいに言わないでよ」

「天然記念物!珍獣の間違いじゃないの!?」

「酷っ」


 村瀬 結 はシンプルなオールドファッションドーナツとアイスティーを注文し、ショップカウンターの椅子に腰掛けた。


「お待たせしました」

「へぇ、手際良いじゃない。ここ、長いの?」

「うん、高等学校からお世話になってるの」

「良い雰囲気だね」


 天井には剥き出しの梁(はり)が黒瓦の屋根を支え、アンティークなペンダントライトが吊るされている。


「でしょ?素敵なお店だなぁって思って、アルバイトに応募したんだ」

「ふーん」


 そこで、ショップオーナーは時計の針を見て、「小鳥ちゃん、昼休憩に入って良いよ」と、村瀬 結 の隣の席にオールドファッションドーナツとアイスココアを置いた。


「え、良いんですか?」

「2人とも僕の奢(おご)りだから、召し上がれ」

「ありがとうございます!」

「ご馳走になります!」

「いやいや、大した物じゃ無いから」

「いえいえいえ、大した物ですから」


 小鳥は、ショップオーナーと村瀬 結 の談笑を聞きながらバックヤードでエプロンを外し、髪型を整えた。


「ふぅ」

「お疲れ様」

「今日は静かな方なの、いつもはもっと賑やか」

「なら、丁度良かった」


 扉の向こうには霧雨が降っている。色鮮やかな傘が通り過ぎ、小鳥はその光景を見遣りながらアイスココアのストローに口を付けた。


「結、なにか話があったんじゃないの?」


 村瀬 結 の目は輝き、椅子に着いた尻はモゾモゾと落ち着きがなかった。小鳥に話題を振られた途端、村瀬 結 は立板に水で身を乗り出した。


「小鳥、あんた彼氏はいるの?」


 これまで2人の会話は、ファッションやメイク関連の話題が多かった。村瀬 結 の突然の質問に小鳥はモソモソとしたオールドファッションドーナツを喉に詰まらせた。


「な、なに?いきなり」

「なぁんか、男の気配を感じるのよね」

「気配って」

「誰か、好きな人でもいるの?それとも道ならぬ恋とか!」

「なに、それ」

「不倫とか」

「やっ、やめてよ!」


 現役女子大生の会話に小耳を立てていたショップオーナーは目を見開き、小鳥の顔を凝視した。小鳥は「違います!誤解です!」と言わんばかりに首を振り、目で訴えた。


「結、冗談でも怒るわよ!?」

「だって、そんな気がするんだもん」

「・・・そんな気がするって、適当な」


 『適当な事は言わないで』と友人に詰め寄りつつ、やはり拓真への切なる思いはとめどなく溢れているのだろう。拓真に会いたい気持ちは日を追うごとに募り、今すぐにでも北國経済大学のキャンパスに出向いてその姿を探し求めたい衝動に駆られている。


(でも、怖い)


 小鳥は怯えていた。拓真が住んでいたアパートはあの場所に無かった。アパートが存在しなかった様に、高梨拓真がこの”メビウスの輪”の世界に存在していなかったら、そう思うと怖かった。


(もし居なかったらどうしよう)


 小鳥は、拓真の実家を訪ねてみたが、丁度、家屋を建てる為の地鎮祭(じちんさい)の準備が成されていた。白いテントの四方には笹竹が立てられ、白木の鍬(くわ)が用意され、砂が盛られていた。


(家が、拓真の家が無い)


 小鳥がの実家に招かれた時、その壁や扉はまだ新しかった。あれは、2015年に建てられたものなのだろうか?然し乍ら、この場所に建つ家が高梨家のものであるかどうかは不確かだった。


「・・・・とり、小・・小鳥!小鳥ってば!」

「あ」

「あ、じゃないわよ!急に黙り込むからビックリしちゃうじゃない!」

「ごめん、ちょっと考え事していて」

「本当に、なんかにるんじゃないの?」

「怖い事、言わないでよ!」


 けれど確かに取り憑かれている。あの日、目の前で失った拓真に雁字搦(がんじがら)めになっている。


「でさ、彼氏いないんだったら良い話があるんだけど、乗らない?」

「なにその嫌(いや)らしい笑い方、怖いんだけど」

「いやいやいや、そんな怪しげなもんじゃ無いから!」

「一層、怪しいわよ」


 村瀬 結 は小鳥にそっと耳打ちをした。


「いっ・・・!」

「そんな大声で言わないの!」

「い、異性間交流会」

「そう、隣の経大けいざいだいがくとのコンパ、良い話でしょ?」

「コンパ」

「そ、5月4日」


(異性間交流会)


 それは2023年7月3日に、27歳の村瀬 結 が小鳥に持ち掛けたコンパの事だった。”メビウスの輪”がまた繋がった。もしかしたら、19歳の高梨拓真と出会う事が出来るかもしれない。


(でも、私は拓真に近付いちゃ駄目)


 もし、と出会えたとしても、今度はそっと陰から見守るのだ。自分が拓真の人生に関わればまた、黒いワンボックスカーが拓真を撥(は)ね飛ばす、小鳥はそう考えた。


「で、小鳥は参加する?」


 そっと見守るだけなら。


「うん」


 そっと見守っていたい。


「参加する」


 声が聞きたい、あの蕩(とろ)ける笑顔をもう一度見たい。オールドファッションドーナツの輪はポロポロと欠け、小鳥の白い皿に落ちた。

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