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第65話 さよなら

 白塗りの壁、白木の柱、空調に揺れる観葉植物。シンプルな造りのヘアサロンの黒い革張りの椅子に腰掛けた小鳥は緊張の面持ちをしていた。鏡の中の自分に問い掛ける「本当に良いのか?」「後悔はないのか?」、自身の記憶を辿れば、2015年の小鳥は髪を切らない。


(切っても、大丈夫かな?)


 以前の小鳥は、2018年の就職面接試験に合わせ、胸まで伸ばした野暮ったい三つ編みの髪を切り、ショートヘアーにした。


(未来が変わってしまうかもしれない)


 ヘアアーティストが手際良く髪をブロック分けにし、その束を髪留めで纏(まと)めていく。


(でも、ここは”メビウスの輪”の世界だから)


 小鳥はその光景を見ながら鏡の中の自分に話し掛けた。


(自分の意思で、自分が思った様に行動しても良いんじゃない?)


 それでも、ただひとつ守るべき事がある。その約束事は、から距離を置く事。それだけは間違えてはならない。自分が原因で拓真を交通事故に遭わせてはならない。もう2度と繰り返さない。失敗はしない。


「須賀さん、本当に切って良いんですか?」

「はい」

「折角、綺麗に伸ばしていたのに、本当に良いんですか?」

「はい、切って下さい」


 小鳥がぎゅっと瞼(まぶた)を瞑(つむ)ると、右の耳元で鋏(はさみ)が鋭い音を立てて横切った。


(これは、との時間)


 左の耳元では重い切れ味で鋏(はさみ)が閉じた。


(これは、との時間)


 首筋に掛かっていた髪の束が床に落ちた。


(これは、との時間)


 そして、ヘアアーティストが握った鋏(はさみ)は、3人の拓真と過ごした時間を次つぎと切り落としていった。


「須賀さん、これでいかがでしょうか?」


 薄っすらと目を開けたその姿は、ワンレングスの肩までのボブヘアーで、これまでよりもずっと垢抜けて大人びて見えた。それは小鳥が自身で想像していたよりも好ましく、思わず笑顔が溢れた。


「ありがとうございます、素敵です」

「このスタイルをキープするのであれば、来月またいらして下さいね」

「はい!よろしくお願いいたします!」


 小鳥がヘアサロンの扉を開けると、5月の風が身体をすり抜けて行った。軽やかな足取り、襟元に付いた細かい髪が痛痒(いたがゆ)かったが、そんな事は大した事では無かった。


「次は洋服だな!この髪型に、あのシャツ!あのトレーナーは無しなし!」


 電車に乗った小鳥は、髪を切った自分が誰かに見られている様な気がして気恥ずかしかった。


(自意識過剰!)


 そう自分自身に言い聞かせた。然し乍ら、窓ガラスに映る少し大人びた面差しと目が合った小鳥は、照れ臭さで思わず目線をスニーカーに落とした。


(・・・・あ、これは、これはないわー)


 よれて薄汚れたスニーカーは、ペールブルーどころか薄い灰色をしていた。靴紐も黄ばんでいる。洋服を新しく買い求めるのであれば、足元も新調すべきだろう。これで、今月のバイト代と小遣いが飛んでゆく事は確実だが、致し方がない。


(うわ、なんだかドキドキする)


 通い慣れたレンガ畳の舗道沿いのテナントショップは、9とは異なりまるで別の道を歩いている様だ。


(あっ!)


 不意に目にした雑居ビルの谷間に脇道があった。大通りから逸れた路地の突き当たりには中華飯店の看板が掲げられていた。


(ここ・・・・拓真と来た、インド料理のお店だ)


 2022年、この中華飯店はインド料理の店へと様変わりしていた。記憶が現在と未来を行き来している。切なさが込み上げたが、小鳥はそれを振り払う様に踵を返した。


「いらっしゃいませ」

「お、お邪魔します」


 緊張のあまり意味不明な挨拶をした小鳥は、に足を踏み入れた。


(あ、全然違う)


 先日、村瀬 結 と買い物に訪れた時は気にも留めなかったが、見回せばショップ全体の印象が違っていた。ポールハンガーはゴシックロリータ調、什器(じゅうき)も落ち着いた雰囲気で、クラシック音楽が流れていた。


(え!?高っ!)


 プライスタグを見ると10,000円を超えるラインナップばかりで予算オーバー。小鳥は異性間交流会で着るカジュアルなチュニックとブラウス、キュロットの3点を購入した。


(経営方針が変わったのね)


 小鳥や村瀬 結 が販売員として働いていた頃はプチプライスレス、安価で低価格の衣類を取り扱っていた。


は景気が良いのね)


 アパレルショップを後にすると、街を行き交う人達は、しっかりとした生地で丁寧な縫製の、高価な服を着ている。まさに浦島太郎の気分だ。


(さて、次は靴、靴)


 靴の値段は然程(さほど)変わらず安堵した。小鳥は、紺色のパンプスを選んだ。


(・・・でも、バーベキューだから、スニーカーも必要よね)


 村瀬 結 から口を酸っぱく、「地味な色はやめなさいよ!」と言われていたにも関わらず、やはり小鳥の選んだ色は落ち着いた渋いペールブルーばかりだった。


(まぁ、目立つ必要もないんだから・・・これでいっか)


 そこで、振り返った小鳥は、コスメ化粧品ショップの前で足を止めた。


(私、コスメ化粧品なんて持ってなかったよね!?)


 小鳥は、自室にある姿見の周囲を思い浮かべた。確か、化粧水や乳液の類(たぐい)はあったが、コスメ化粧品らしい物は見当たらなかった。


(2015年の私って、どれだけだったの!?)


 財布の中身と相談しながら、化粧下地とフェイスパウダー、アイブロウペンシルと口紅を買い物カゴに入れた。口紅はシアーなベージュピンクを選んだ。


(さよなら、これまでの私)


 髪を切り、新しい服と靴を新調した小鳥は2015年へと踏み出した。


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