山肌を登り始めたシャールは、足場の悪さに驚きながら上へと進んだ。
ついていくと言って聞かず、同行したアミルもその一人だ。
「ヤンの言う通りでしたね」
「本当だね」
そんなことを言いながらどうにかお目当ての花や草が群生している所まで辿り着く。
「結構咲いてる!間に合って良かった」
「シャール様、どのくらい摘みますか?」
「そのリュックいっぱいくらい欲しいかな」
「分かりました。皆、手分けして集めるぞ」
「「はい!」」
初めて作る薬なので失敗することも考慮しなければ。無くなったからといって気軽に摘みには来られないのだから。
「それにしても見晴らしがいいなあ」
しばし手を止めて思わず見入った。ここは高台にあるので遮るものが何もなく遥か下の街まで全て見渡せるのだ。
人目を忍んで生活しているシャールは城から出たことはない。でもいつかアルジャーノンと結婚したら髪も短くして違う色に染めてみたい。
そして二人で買い物やデートをするのだ。
「アルジャーノン……待ってるよ」
冷たい風に愛しい人の名前を乗せてみる。遠く離れたあの人にこの風が届きますようにと願いを込めて。
「シャール様!これくらいで足りますか?」
「ありがとう!大丈夫です。じゃあ一休みしたら暗くなる前に降りましょうか」
「では休める場所を作りますのでシャール様はアミルさんと一緒にいてください」
「はーい」
シャールは皆と同じように花摘みに勤しんでいたアミルに声をかけてお茶の支度を頼んだ。
「こんなところで飲むお茶は美味しいですよね」
「そうだね。みんなでお菓子も食べてのんびりしよう」
「はい!」
アミルが大きな袋から必要なものを出していたのでシャールもそれを手伝う。座れるように布を広げたところでシャールはふと、手を止めた。どこかで猫のような鳴き声が聞こえた気がしたのだ。
「こんなところに猫なんているのかな?」
「猫ですか?ここは食べるものもなさそうなのでいないんじゃ……でも確かに聞こえますね。助けを求めてるみたいにも聞こえます」
「そうだよね」
それはほんの微かだったが、確かに誰かを呼んでいるように聞こえた。シャールはミルキーを思い出して可哀想になりその声の主を探す。歩いているうちに少しずつだがはっきりと聞こえるようになってきたそれはあまりにも愛猫の鳴き声に似ている。
「あっ!あそこです!」
アミルが指差したのは岩で出来た崖の先だった。そこで確かに真っ白な猫が鳴いている。。
「え?ミルキー?」
「そんなはずありません。毛並みが似ているだけでしょう。でもあんなとこにいたら落ちて死んでしまいます。すぐ人を呼んでくるのでシャール様はここで待っていて下さい」
「分かった。お願い」
そうしている間にもその猫は悲しそうに鳴き続ける。遠目ではあるが、その姿も声もミルキーにそっくりだ。
「あっ!あぶない!」
シャールと目が合ってよろよろと立ち上がった瞬間、崖の向こうに向かってふわりと体が揺れた。紐か何かで繋がれているようで体制を崩し、そのまま宙にぶらりと垂れ下がる。
「だめ!暴れないで!紐が外れちゃう!」
もう黙って見てはいられない。シャールはその崖めがけて走り、岩によじ登った。
首でも締まっているのか悲痛な鳴き声はどんどん切羽詰まったものになっていく。
シャールは爪が割れるのも構わず岩の一番上まで登り切った。
「ミルキー?!」
あろうことかそれは確かに愛猫のミルキーだった。首に巻かれているリボンはシャール手ずから刺繍を施したものなのだ。
「どうしてこんなとこに!!」
急いでミルキーを引き上げ、体に巻きつけられた紐を解いた。そして抱きしめて頬ずりをする。
「ここで縛られてたの?一体誰がこんな酷いこと!」
絶対犯人を見つけてやる。そう思いながらミルキーを抱き、岩肌を降りる。早く皆に伝えて犯人を捕まえよう。まだそんなに遠くには行ってないはず。
そう考えてさきほど敷いた布の側まで戻ってきたシャールを森の入口で待っている男がいた。
「誰?」
シャールはミルキーを抱きしめたまま半歩下がった。マントを深くかぶり暗くて顔は見えないがシャールの脳裏に警鐘が鳴り響く。
「ほんの数年会わなかっただけで忘れたのか?薄情だな」
カサリと落ち葉を踏み締めてゆっくりと歩いてきたのは二度と会いたくないと思っていた男。
それはルーカの兄、バリアン男爵家の長男デモンだった。
「どうしてここに……」
「なんで死んだなんて嘘をついたんだ?そんなことで俺を誤魔化せるとでも思ったのか?」
少しずつ近づいてくるデモン。だが、シャールの後ろは大きな岩があるだけの行き止まりだ。
(どうしよう。誰かきて!)
ミルキーをぎゅっと抱き、うずくまるが、あっという間にデモンはシャールの目の前に立ち塞がった。
「俺と帰ろう」
「は?何言ってるの?帰るわけないでしょう」
精一杯の虚勢を張るが、この大柄な男の隙をついてミルキーを連れて逃げるのは不可能だ。シャールの額から嫌な汗が流れた。
「……お前は帰って来るよ」
「え?」
「自分の意思で王都に戻って来る。そしたら今度こそ俺と一緒に暮らそう。皇太子からも守ってやる。もうお前を誰にも殺させない」
「……!!」
息を飲んだ音さえも響くような静寂に包まれた空間でシャールは自分の耳を疑った。
(なんて言った?今回は殺させない?前生の話をどうしてデモンが知ってるんだ?……いや以前のお茶会でも今回は毒を入れてないって言ってた。どういうこと?デモンも過去に戻ってきた?!)
「驚いている顔も綺麗だな。このまま攫ってしまいたいが護衛が強すぎて無理だ。シャールが王都に戻って来るのを待ってるよ」
それだけ言うとさっとマントを翻して森の奥へ消えていく。
シャールは驚きと衝撃でミルキーを抱いたまま地面に座り込んでしまった。
「シャール様!!!」
程なくしてヤンの声が聞こえ、皆がシャールの元に駆けつける。そしてミルキーを見て驚きの声を上げた。
「シャール様、なにがあったのか帰ったら聞かせてください。とにかく今は早く城に戻りましょう」
「うん」
ヤンの手を借りてどうにか立ち上がったシャールは、麓に待たせてあった馬車に乗り込み家路を急いだ。
戻ってすぐシャールはヤンにはがれた爪の手当を受けた。怯えるミルキーを風呂に入れたかったが、手が使えないのでアミルが湯を使いミルキーを綺麗に洗ってくれた。そして暖炉の前でその毛並みを撫でて乾かす。
「ありがとうアミル、それにヤンも。疲れたでしょ、部屋に戻っていいよ」
「シャール様、申し訳ございませんでした」
突然ヤンが床につくほど頭を下げる。
「やめてよ、僕が勝手に動いたから悪いんだよ。誰もあんなとこで危ない目に遭うなんて思わないよ」
あの山を登るには道は一本しかない。シャールは頂上にいたので、シャールの所まで行こうと思うと手前でテントの準備をしていたヤンたちと会わないわけがないのだ。
それなのに誰もデモンに会ってない。まるで幽霊みたいに消えたのだ。
「知ってる相手でしたか」
「うん。ルーカのお兄さん。僕の従兄弟だよ」
「そいつがなんであんなとこで猫を使ってシャール様を誘き寄せるような真似を」