アルジャーノンは声のした方に視線を動かす。そこには真っ白い髪をした背中の曲がった老人が立っていたが、その人物にも見覚えがない。
「俺は一体……」
(思い出せない。何故こんな所にいるのか。自分は何者なのか……)
間もなくやって来た医者が簡単に傷を確認し、少しの薬を置いてさっさと帰っていく。帰り際に支払いのことで老人ともめているのを見たアルジャーノンは自分が招かれざる客だと言うことに気が付いた。
「うるさくしてごめんね。痛い所はない?あっ私はノア。おじいちゃんと二人でここに住んでるの。あなたは?」
「……俺は」
それ以上の言葉が出ない。自分は誰なんだろうと自問自答する。
「酷い目にあったから混乱しているのかも。あなた生きたまま墓に埋葬されてたのよ。でも凄いわね自力で棺桶を開けて這い出してたのよ。そのせいで爪がほとんど剥がれちゃってるから当分は何をするのも痛いかも」
ノアの言葉に腕を上げて見てみると、すべての指に包帯が巻かれている。それにしても酷い筋肉痛だ。アルジャーノンは顔をしかめた。
「安心して!ご飯は私がちゃんと食べさせてあげる。他に傷がないのは幸いだったわね。しばらくゆっくり休むといいいわ」
「そうじゃな。まずは食べられそうなものを作るかの」
ノアと祖父は何やら相談をしながら部屋から出ていった。……善良な人たちだ。アルジャーノンは二人に感謝をしつつも生活が楽ではないこの家を早く出ていかねばと考えていた。
(……だがどこに行けばいいのだろう)
しばらくしてノアが古びた木のお椀に薄い粥のような物を作って持って来た。甲斐甲斐しくアルジャーノンの体を起こし、その口元までスプーンを運ぶ。
「申し訳ない。迷惑をかけて」
「気にしないで。困った時はお互い様よ」
建前ではなく本当にそう思っていることが感じ取れて、アルジャーノンは余計に申し訳ない気持ちで一杯になるが、年老いた祖父と二人暮しだと聞いて(ここを出ていくまでに自分にできることをしよう)と決めた。
その誓い通り、翌日からアルジャーノンは指を使う以外の色々な手伝いをした。薪を運んだり高い木に登って果実を取ったり。ノアが工芸に使う枝を沢山探してきてとても喜ばれたりもした。
「凄い回復ねアナスタシオ」
……アナスタシオというのはアルジャーノンの新しい名前だ。呼び名がないと面倒だとの理由からノアが名付けたが、復活を意味する名前の由来が墓から蘇ったからだというのが安直で笑えない。けれどアルジャーノンはこの名前を思いの外気に入っていた。
「ねえアナ、行く所がなかったらずっとここにいてもいいのよ。私達も助かるしアナも身を隠せるでしょ」
「……だが生きたまま墓に葬られるような男だ。何か悪いことをして殺されるところだったかもしれない。もしそいつらに見つかったらノアや爺さんにまで危険が及ぶ」
「大丈夫よ。こんなところまで人は来ないわ。あの墓からだって結構離れてるしここは入り組んでいて人目につかない。そんな過去があるかもしれないなら尚更よ。すべて捨ててここでやり直してみない?ノアさえよければ私達と家族になってくれたら嬉しいわ」
「……ありがとう。君の優しさに感謝する」
「ええ!ゆっくり考えて!良い返事を期待しているわ」
それだけ言うとノアは部屋を飛び出した。これ以上アナと一緒にいるともっと余計なことを言いそうだったから。
「あーあ。家族じゃ伝わらなかったわね。結婚して欲しいってはっきり言えばよかったかな。……そのうちアナが私を好きになってくれたらいいのに」
ノアは小さな声でそう呟いて一人、夜空を見上げた。
レオンドレスが指揮を執りアルジャーノンの捜索を始めてはや一ヶ月。
ようやく王城から大きな荷物を運び出したというギルドの男が見つかった。けれど追っ手から逃げる中で死の恐怖から麻薬に手を染め、記憶が曖昧になっていた。
「せっかく生きて見つかったのに……」
「麻薬を抜く為に牢に閉じ込めてある。正常に戻ったら思い出すだろう」
暗い顔をするシャールをレオンドレスが励ますが、それにはかなりの時間を要する事は理解していた。
「真偽のほどは定かではないですが、父上からもアルジャーノンの行方に関して情報があったと連絡が来ました」
「そうか、ではそちらも念の為に確認するよう手配しよう」
「お願いいたします」
「とにかくベラに気づかれないよう細心の注意を払って進めなければいけない。城内にも思ったよりベラの味方は多いからシャールも気をつけるんだぞ」
「はい」
それだけ言うとレオンドレスはシャールから離れ、執務室に向かう。自分たちが接触できるのはすれ違う時の挨拶に見せかけたこの僅かな時間だけだ。ベラに気付かれたら何をされるか分からない。
とは言え一国の皇后を僅かな疑惑で投獄するわけにもいかない。そしてそんな事になったとしてもベラはあらゆる手を使ってアルジャーノンを殺すだろう。
(陛下は目覚められてから力を尽くして改悪された法律を修正しようとされているが、腐りきった貴族は言うことを聞かない。アルジャーノンが皇太子になれば二人でそんな勢力に対抗出来るだろう。クーデターで血を流さずともサラやお祖父様、父上の力を借り私利私欲に溺れた者たちを一掃出来るはず)
一日も早くそんな日が来るようにと祈るシャールだが、そんな彼を柱の影から胡乱な目で見つめている男がいることに本人は気付いていなかった。
※※※※※※※※※
「もう嫌だ!!」
言葉と共に投げられた花瓶は床で粉々に割れ、もう修復は出来そうにない。ルーカは息を荒げてその場に立ち尽くしていた。
「どうしてセスは来ないの!どこにいるの!」
「ルーカ様、お子様にさわります。どうかお鎮まりを……」
「うるさい!!!どうせお前も子供のことしか考えてないんだろ!僕がどうなったって関係ないと思ってるんだろう」
「そんなことは……」
尻すぼみの声にルーカの怒りは更に煽られる。
「いつもそうだ……皇后だって子どもの心配しかしてない!セスなんて子どもの事も心配もしてないけどね!」
「きゃああっ!!」
ルーカは侍女の髪を掴み床に叩きつける。口や鼻から血を流した侍女は気を失ったのかだらんと力なく床に横たわった。
「ひっ……」
両手で口を塞ぎ悲鳴をあげないよう気をつけていた他の侍女は皆、顔面蒼白になっている。だがこの皇太子妃候補のオメガ姫に仕えている限り逃げる事は叶わない。
「ねえ誰か。セスを呼んできて。来ないとわざと階段から落ちて子どもを殺すよって言ってきて」
「は!はい!」
いち早く手を上げたのは最近正式にルーカ付きの侍女になったアリアだ。
ここから逃げられるならなんでもいい。そう思ってのことだが、周りの侍女が誰も手をあげない事に疑問を覚えた。むしろアリアを憐れむような目で見ているのも気になる。
「行って参ります!」