翌日。シリルに薬を飲んでもらうため、少し早めに目を覚ます。
「んー」
『おや、もう起きてしまわれるのですか?』
くぐもった声に「んー」と頷きギュッと抱きしめていた魔導書を手放す。黒い背表紙に宝石や金銀の刺繍が施された芸術品ともいえる分厚い本は、私が両手で抱えるほど大きい。
これがダレンの本体であり、本来の姿だ。いつ見ても芸術的なデザインで月と太陽をモチーフにしている。表紙をそっと撫でるとビクリと本が揺らいだ。ちょっと小動物みたいで可愛い。
婚約者として色々ズレているけれど、私としては現状満足している。いつか庶民デートをしてみたいけれど、それは領地やら諸々が落ち着いてからで十分だわ。……と言うか、そんな余裕がまだないのだけれど!
『この姿でギュッとされるのは、やはり良いですね。こう、なんだか温かい気持ちになります』
「それは……嬉しいですわ」
「では今度は私がレイチェル様をギュッといたしましょう」
「ひゃう!?」
唐突に人の姿になったと思ったら、新品の燕尾服のまま私を抱きしめる。ダレンの心音や熱が伝わってきて、全身が熱い。
自分の心音もひどい音だわ。こ、このあと恋愛小説とかだと、背中に手を回すのが普通なのよね?
「どうですか? その……トキメキ? と言う感情は芽生えていますか?」
「ええっと? ドキドキバクバクしています? これが恋なのでしょうか。嫌とかではなく……そのダレンにギュッとされるのは、良いものだと思いますわ」
言葉を付け足すとダレンは肩の力を抜いて、私に密着する形で擦り寄った。これも擽ったいけど、嫌じゃないわ。
「良かったです。私は異形種ですからね。人間の機微は恋愛小説などで、猛勉強中です。喜怒哀楽などは一通り理解できますし、レイチェル様が特別で、愛おしいというか感情もハッキリとあります」
「ふ、ふぁい……(面と向かって言われると照れ臭いわ)」
「まだまだ分からないことがあると言うのは、とても楽しいですね」
無邪気に笑う彼に、毒気を抜かれてしまった。魔導書の怪物。最初は何を考えているのか分からなかったけれど、案外彼は純粋に世界の事柄を楽しんで、理解しようとしているのかもしれない。
辿々しくも一つずつ感情を大事にするダレンは好ましく思う。それに本の趣味も合うので、読みあった感想を話し合うのも楽しい。最近は恋愛小説で、恋人らしいことを話して実行するのがブームだ。
「お互いに恋愛初心者ですから、のんびり進めて、楽しんでいきましょうね」
「ええ。二人で紡いでいくのもなかなか楽しいですし、新しい発見もして情報量が今までと段違いで充実しています。……それで、領地が落ち着いたら、デートというものをしてみたいのですが、いかがでしょう?」
「デート……!? ダレン、それって……あの恋愛小説の醍醐味の一つよね!? 私もいつかとは思っていたのだけれど!」
「そうです。恋愛小説において一大イベント……!」
『いや一大イベントは、誕生日とか年末年始や、お祭りごとじゃないの?』
「「!?」」
カノン様は扉を開けずに、通り抜けて姿を表す。壁のすり抜けも見慣れているので、私もダレンも驚かず「「それだ(わ)」」と叫んだ。やっぱり博学なカノン様の提案は素晴らしいわ。
「誕生日、ですか……」
「ダレン?」
「私は自分がいつ誕生したのか分からないのですよ」
『魔導書なのだから、初版として日付って書いてないものなの?』
「
苦笑するダレンは、以前よりも人間らしい表情が豊かになったと思う。だからこそ泣きそうな少し困った顔にキュンとしてしまった。
「それなら──死に戻りする前、私と出会った最初の日はどうかしら?」
「!」
それはこの領地に来て本を読み漁っていた時──あれは夏の始まる雨上がりの日だった。ずっと前のことなのに、あの時の出会いを鮮明に覚えている。暗く閉ざされた世界で、ダレンとの出会いは私の心を大きく揺れ動かした。
「それはなんとも魅力的な提案ですね。……レイチェル様が望んでくださるのなら、ぜひ」
「じゃあ、その日で誕生日は決まり。──カノン様、誕生日パーティーのセッティングはよろしくお願いしますね!」
『そこは自分たちで調べないのね』
「はい」
「ええ!」
呆れと言うよりも達観に近い口調でカノン様は笑った。時々「ぷふっ」と小さく吹き出して笑うカノン様の笑顔が可愛い。
「カノン様なら、きっと素敵なパーティーを思いつきますわ」
「異世界のパーティー、今から楽しみですね!」
『期待値がガンガン上がっているわね。まあ、パーティーだけじゃなくて、領地に戻ったら様々な行事も行おうと考えてちょうど良いわ』
またしても色々と考えているらしく、その発想力と機動力に脱帽したのは言うまでもない。
***
朝食を終えてからシリルの様子を見に行くと、驚いたことに幼かった少年から青年に成長を遂げていた。一体なにが!?
白銀の艶やかな長い髪に、褐色の肌と彫刻のような肉体美、八重歯は更に目立つ──私の記憶にある二十代前後の青年がいたのだ。しかもなかなかの偉丈夫。もしかして呪詛の侵食率が下がったことで、覚醒して肉体を急成長させた? 鑑定で何度も確認したけれど、呪詛はほとんど残っていないわ。
診察ということで、ランファ、フウガ、ディルクたちは別室で控えて貰っていたけど、これは良かったかも。勢いでグォンだけ置いてきたとはいえ、それだけで脅威が去ったかは不明瞭だからだ。
ここでシリル自身にも身の上話を語ってもらおうとしていたのだが──。
彼はベッドから起き上がると、膝を突いて深々と頭を下げた。
ん? あれ? ええっと……私たち九回目では初対面……ですよね? どうしてすでに好感度が上限いっぱい、というような目をしているの?
こ、これは……もしかしなくてもカノン様が、なにかした!?