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38、宋家と李家(3)


 一方、李家の屋敷は、冷たい静寂に支配されていた。


 文官として代々朝廷に仕え、清廉さと知恵で知られる李家の夫人、碧蓮へきれんは、夫李承鴻りしょうこうの不倫を疑い、鬱々とした日々を送っていた。

 気鬱のせいか、何を食べても美味しくない。

 世界は一切の色を失ったように思えた。


 夫が宋家に通い、時には泊まり込むと聞くたび、胸が嫉妬と不安で締め付けられる。

 使用人の囁きや、意地の悪い侍女の含み笑いが、碧蓮の疑念をさらに煽った。


「あなたは友人と会うと言って、いつも家を空ける……。本当は宋家の夫人に心を奪われているのでしょう? それとも、それとも――まさか、一部の人が囁くように、ご友人と殿方同士の友情を越えた愛を密かに育んでおられるのかしら……」


 友人公認で友人の妻と背徳的な遊戯に溺れている。

 友人も混ざり、三人で肉欲の虜になっている。

 あるいは、実は友人とできている。


 ありとあらゆる噂が出ていて、もう頭の中ですべてが想像されつくされていた。夫はとんでもない色魔だ。

 三人で楽しむなら、四人でもいいじゃない。なぜわたくしを誘ってくださらないの。

 そんな思いまで湧いてしまう。


 夫の不在と噂と妄想に耐えきれず、彼女は夜ごと枕を濡らしていた。時には侍女と一緒になって妄想を語り合い、妄想を記録して薄い本までできてしまった。


「奥様。この本を売りましょう。世間の注目の的になりますわ」

「うっ、うっ、ぐすっ、ど、どうしようかしら」


 そんなある日、華凛妃からの手紙が届いた。


 そこには、宋家の怨霊騒動と、李承鴻が友人の妻である宋夫人を救うために通っていた真実が綴られていた。


 ――あなたのご主人は、不倫をしていません。


 意味を理解した瞬間に、色褪せた世界に色彩が戻って来た気がする。

 碧蓮は手紙を何度も読み返した。


 その夜、久しぶりに夫が屋敷に戻ってきた。

 いつもは厳格な顔つきの李承鴻が、どこか気まずそうに寝所に現れた。


「あ、あなた……」

「華凛妃殿下から、ちゃんと説明せよと命じられた」


 彼はそう切り出し、深く頭を下げた。

 顔を上げた夫は、妄想の中の色魔とは似ても似つかぬ、不器用で誠実そうな顔をしていた。


「宋家の夫人を悩ます怨霊を退治するため、宋天凱と協力していた。家の名誉にかかわるゆえ、口外せぬよう頼まれていた。だが、そなたに何も話さず、不安にさせたのは私の過ちだ。すまなかった」

「そ、そうだったのね。不倫、していなかったのね。本当に……本当に?」

「本当だ」


 疑念が溶けるように消え、代わりに温かな安堵が胸を満たしていく。


「ご友人の奥様と、隠れて体の関係を持ったりしていないのね」

「誓って、そのようなことはない」

「ご友人公認で、ご友人が座って見ている前でご夫人を後ろから犯したりしていないのね」

「な、なにやら具体的だな。そのような事実はないぞ」

「……ご友人と一緒になってご夫人を悦ばせたり、ご友人と一線を越えた熱い友情を育んで口吸いをなさったりも、していないのね」

「そ、そんな噂があるというのか……!?」


 夫の顔が恐怖に歪む。怖ろしい? わたくしの妄想が。


「あなた……私、なんて愚かだったのかしら……本を売ってしまいました……」

「いいんだ、わかってくれれば。今まですまなかった。……ところで、本とは?」

「気になさらないで」


 彼女はそっと夫に近づき、その胸に飛び込んだ。

 この胸板は自分だけのものだ。そんな独占欲めいたものが湧いて、喜びと高揚でいっぱいになる。

 李承鴻は妻を強く抱きしめ、静かに囁いた。


「もう二度と、そなたを悲しませぬ……」

「ああ……あなた……!」


 二人は見つめ合い、まるで初恋の頃のように口付けを交わした。

 その夜、李家の寝所は、久しぶりに熱い愛で満たされた。

 翌朝、碧蓮は鏡台の前で髪を結いながら、息子の凌輝に笑顔で語りかけた。


「凌輝、雪蘭くんと仲良くするのよ。もう、めぎつねなんて言わないでね。」

「はあい」

「いい子ね。おこづかいをあげましょう」

「わあい」


 幼い息子に、どんな伝え方をすればわかってもらえるだろう。

 碧蓮は本の売り上げから自分の子どもたちと侍女にお小遣いをあげ、夫の潔白と自分の誤解について説明したのだった。


   ◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆


 夏国の都の喧騒が響く市場の一角、色とりどりの布や香辛料が並ぶ中、ひときわ人目を引く品があった。


 素朴な桃花の装丁に包まれた薄い書物、『秘された桃花の夜話~夫が毎晩、下衆な不倫をしているのです~』である。著者は、『深窓の蓮夫人』。

 はっきりと「最近噂されている『浮気された妻』碧蓮へきれんが書きました」とは書いていないが、正体が匂わされている。


 名門李家と宋家の男盛りの当主同士の禁断の関係を描いた物語、それも夫人の手による暴露本とあって、市井の民は大騒ぎだ。


「大変だ。この本、宋家の当主・宋天凱そうてんがいと李家の当主・李承鴻りしょうこうの背徳的な絡みが、赤裸々に綴られている……!」

「な、なんだって!」


 夏国の識字率は、それほど高くない。

 このようなとき、文字を読める者は大活躍だ。皆に「教えてくれ」「読んでくれ」とせがまれる人気者になれる。

 宿屋の息子が本を仕入れてきて、商人や職人、通りすがりの若者たちが肩を寄せ合い、目を輝かせてその書を囲む。

 酒場でもどこでも、本を何人かで囲む光景が繰り広げられた。


「これ、ただの話じゃないよ。宋様と李様の、夜の秘め事がこんなにも生々しく書かれてるんだから! 見てみろ、絵も描いてあるんだ!」

「おおーっ!」

「す、すげえ!」


 書を開けば、そこには扇情的な文が踊っている。


 舞台は宋家の屋敷、月明かりが差し込む寝所。

 宋天凱が、妻・瑠璃とともに李承鴻を畳の上に押し倒す場面が、まるで絵巻物のように描かれているのだ。


 李承鴻の目は黒い布で覆われ、手足は柔らかな縄で縛られ、身動きが取れない。

 だが、その頬は紅潮し、息は荒々しく、身体は熱を帯びている。書にはこうあった――


 李承鴻は抗うように首を振る。


「わ、私には家で帰りを待つ妻と子が……!」


 声を震わせるが、宋天凱は低く笑い、耳元で囁く。


「そんなことを言っても、そなたの身体は俺を欲しているではないか」


 その指が李承鴻の衣を剥ぎ、肌をなぞるたび、縛られた男は身をよじり、否定の言葉とは裏腹に甘い吐息を漏らす。

 傍らで瑠璃夫人が妖しく微笑み、夫の動きに合わせるように李承鴻の髪を撫で、さらなる熱を煽る。


 この一節を読んだ魚売りは、顔を真っ赤にして叫んだ。


「おおっ、なんちゅう話だ! 宋様がそんな大胆に李様を……! しかも瑠璃夫人まで加わって……こりゃもうたまらん! ガキどもは寝ろ! ここからは大人の時間だべ!」


 隣の鍛冶屋も目を丸くし、書を奪い取るようにして春画に興奮の鼻息をかける。


「か、か、金持ちの名族が、なんちゅーことをしとるだ。こんなけしからん、破廉恥な……」


 市場の別の角では、書生たちがひそひそと語り合っていた。


「これは……なんという背徳の美!」

「不倫ですよ。許されません」

「我が国の品位が……」

「しかし、興奮する。宋天凱様の力強い手管に、李承鴻様が抗えず堕ちていく……!」

「気持ち悪い。朗読するな!」


 旅芸人は琵琶を手に、商魂を刺激されていた。


「こりゃ、語り物の絶好の題材だ! 宋様が李様を縛り、瑠璃夫人がそっと囁く場面を、ちょっと大げさに語れば、観客は総立ちだよ! 劇にしよう!」


 市場を歩く老婆でさえ、眉をひそめながらも耳をそばだてている。


「まったく、名門の名を汚すような話だよ……ところでそのお話は本当なのかい?」


 本は飛ぶように売れ、市場は興奮の渦に包まれた。


 ある者は「宋様の覇気に李様が屈するなんて、まるで戦場の如し!」と笑い、ある者は「瑠璃夫人が絡むなんて、宋家の寝所はさぞ熱いんだろうな!」と囁き合った。売上の一部は碧蓮の手で使用人や子らに小遣いとして配られたが、その事実すら「李家の奥様、気前がいい!」と市場の笑いものとなった。


 かくして、『秘された桃花の夜話~夫が毎晩、下衆な不倫をしているのです~』は夏国の市井で語り継がれ、高貴な家々の醜聞は民の娯楽を彩った。

 そして、本に影響され、水面下でこっそりと不倫も流行ってしまったと後世には伝えられている……。



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