「あのね、そえでね」
「ええ、ええ」
「あのね、あのねえ……、……、すぅ……」
三歳児のお話はもどかしい。
なかなか話が進まないし、要領を得ない。
しまいには話し疲れて眠ってしまった。
(結局……どういう喧嘩だったのかしら……?)
華凛は
頭の中で情報整理していると、こほん、こほんと咳払いが聞こえる。
控えめなのに自己主張が激しい咳払いだ。
「なにかしら」と振り返ると、教育係の
「恐れながら、ただいまの殿下のお話を補足いたしたく……」
寝た子を起こさぬように気を付けながら瑞軒が話を補足してくれたので、華凛は学友たちを取り巻く問題を知ることができた。
どうやら、家同士のどろどろした問題があるようだ。
まず、『りーくん』こと
李家は文官として代々朝廷に仕え、清廉さと知恵深さで知られる一族だ。
友人と語り合うのだ、と言って通っているのだが、それにしても頻度がどんどん高くなる。
泊まり込む日もあり、噂だと夫人の部屋に毎回訪れているという。
事情を知らない者たちは口さがなく不倫疑惑を囁き、李夫人もひっそりと心を痛めていた。
そういえば、学友を決める『
『あなたったら。普段は家に帰る暇もないと言って寄り付かないくせに。あたくし、知ってますのよ。仕事なんて言い訳で、本当は他家の美しい夫人に夢中だって。息子のことだってどうでもいいくせに』
『何を言うか、くだらない! 妄言はやめよ』
あの夫妻が李夫妻だったのか。
家族や社会の秩序、貞節が重視される
皇子の学友の出身名家同士の醜聞は国家の品位にも関わる。
――よろしくない。
華凛が眉を顰めていると、瑞軒は「ただ、実際は不倫ではないのですがね」と首を振る。
「えっ……ち、違いますの?」
「恐れながら、違います」
「まあ」
瑞軒が静かに咳払いをし、言葉を続けた。
「実は、『りーくん』こと
(……怨霊?)
華凛は目を丸くした。
「李様は道術の知識もおありになるので、宋家の夫人の症状について宋家の当主と相談し、『これは怨霊の仕業では』と診断して、なんとか怨霊を祓えないかと秘かに動いておられる最中なのです。ですが、李夫人との会話が不足がちで、誤解が生じている模様……。貴き方々の不名誉を楽しむ層も悪意的に噂を広め、家庭の不和を煽っているのですね」
「ま、……まぁ、……それは、大変……。ず、瑞軒、……ずいぶんお詳しいのですね」
「実は、私、
瑞軒は控えめに、しかしどこか誇らしげに微笑んだ。
華凛は、意外な交友関係に驚きつつ、ふとあることに思い至った。
怨霊の話が本当なら、ちょうど適している人材がいるではないか。
「そ、……そ、……そういえば、華山派の道士たちがまだ滞在していますわ。宋家の夫人を診ていただくよう手配しては、いかがかしら?」
提案すると、瑞軒は深く頷いた。
心なしか、したり顔だ。
「実は、なにを隠そう……臣下もそう考えていたところであります」
彼は即座に動き、華山派に連絡を取ってくれた。
その日のうちに道士たちは宋家へ向かい、間もなく華凛のもとに「怨霊を無事退治した」との報告が届いた。
こうして、宋家と李家の誤解は解け、両家は再び穏やかな関係を取り戻したのだった。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
宋家の屋敷は、かつての華やかさを失い、まるで時が止まったかのような沈鬱な空気に包まれていた。
宋夫人、
ある日は力なく床に伏し、ある日は魂が抜けたように狂乱の叫び声を上げ、少しずつ体力を削られて弱っていく。
その姿に、夫である当主・
「ああ、なんということだ……本当に、どうしてこうなったのか。まさか本当に、酒に酔ってご先祖様の悪口を言ったのが原因ではあるまいな? ご先祖様、お許しください……」
宋天凱は額に手を当て、疲れ果てた顔で呟いた。
うっかり。本当に、軽い気持ちで、友人と酒を飲んでいたときに言ってしまったのだ。
『友人の家のように、武器ではなく英知で知られる先祖がよかった。私はいつも自分の頭の悪い血筋に劣等感を覚えているのだ』――と。
……あれでご先祖様がお怒りになったのだろうか……。
宋家は代々武官として皇帝に忠義を尽くしてきた名門だ。
だが、夫人を襲うこの怪異は、名門名家の財力をもってしても祓えない。
博識で医術と道術をかじっている友人の
それどころか、友人の家庭内不和の原因になってしまっているらしい。申し訳ないことだ……。
息子と娘は、母の苦しむ姿に目を潤ませ、父にすがるように訴える。
「父上、母上を助けてください!」
「も、も、もちろんだ。助けたい。助けたいと、父も思っておる」
「ちちうえが、ばかなことをおっしゃるからだ!」
「うっ……、ち、父はばかだ。許せ……」
夏国では家長である父親は家内で絶対君主である。なのに、もはや威厳もなにもない。
「うわああん。おかあさまがしんじゃう。おとうさまがころすんだ!」
「こ、これっ! 縁起でもない!」
子どもたちの悲痛な声が、宋天凱の胸を突き刺し、抉る。
この子たちは、全て妻が産んでくれた愛の結晶だ。
出産は女性にとって危険が大きく、寿命を削ると言われている。
妻は健気にも
「ああ――――」
愛する妻を救いたい。家族の笑顔を取り戻したい。
だが、どうすれば――。
血の気を失った瑠璃の顔を見つめ、痩せ細った手を握る。
その手はあまりにも冷たく、まるで命の灯が消えゆくかのよう。
このまま、儚くなってしまうのではないか。
「名家だと? 当主だと? 私は……私は何もできない……」
焦燥感と無力感が彼の心を締め付け、このままでは瑠璃を失ってしまうという恐怖が全身を支配する。
そんな絶望の淵にいたとき、思いがけない報せが届いた。
華山派の道士たちが、華凛妃の命を受けて宋家を訪れた、というのだ。
「なん……だと……?」
屋敷に現れた華山派の道士たちは、まるで天から遣わされた使者のようだった。
ゆったりとした白い道袍の裾が風に揺れ、清らかだ。
歩みは堂々としていて、威厳がある。
彼らは、ただ人を越えた超越者に
普段は人里に降りることがない、能力者たちだ。
――仙人を目指しているというが、すでにまるで仙人のようだ。まるで奇跡だ。救い主が目の前に現れたのだ!
その姿を見た宋天凱の胸には、希望の灯がともった。
道士たちは瑠璃の寝所へ向かい、部屋に足を踏み入れると、静かに準備を始めた。
香炉から立ち上る煙が、薄暗い部屋を神秘的な
道士の長、柳剣鋒とその弟子たちは、手に持つ古びた経巻を開き、低く響く声で経文を唱え始めた。
道士たちの声は、まるで天から降る稲妻のように心に響いた。
悪辣な怨霊がいれば、逃げていくに違いない!
宋天凱は拳を握り、鼻水をすすった。
他の道士たちは、剣を手に舞うように動き始めた。
儀式が進むにつれ、部屋の空気が変わっていくのが分かる。
重苦しかった空気が徐々に軽くなり、まるで春の陽光が差し込むように温かな気配が満ちていく。
「おお……、るっ、瑠璃……っ!」
宋天凱は目を疑った。
あれほど青白く、死に瀕したように見えた妻の顔が、血色よくなっていく。
握りしめた妻の手は、ほんのわずかだが、温かさを取り戻していた。
柳剣鋒が静かに剣を収め、穏やかな声で告げる。
「怨霊は去りました。宋夫人はもう大丈夫でしょう」
その言葉を聞いた瞬間、宋天凱の胸に熱いものが込み上げた。
「ああっ……」
絶望の淵から一気に救われたような、九死に一生を得たような高揚感が全身を駆け巡る。
涙が溢れ、声が震えた。
彼は道士たちの前に進み出て、膝をつき、深々と頭を下げた。
「華凛妃殿下のご配慮、そして華山派の皆様の神聖な力に、宋家一同、命を救われた思いです! この恩は決して忘れません! 心より……心より感謝申し上げます! ご、ご先祖様の悪口は、もう二度と申しません……」