私は失敗すると、
自分に傷を作ります。
その習慣のせいで、
どうにも職業を転々とする羽目になり、
困ったものだと思っています。
接客業をしていたとき。
お客様からのクレーム、
品物とサービスを、お金に換算して、
私はこれだけの損害を出したから、
私の腕をぱっくり切ってしまおう。
傷はお金に換算されて、
失敗はこれで帳消しになる。
少なくとも私はそう思っている。
でも、それでやめることになった。
なんでかなぁ。
損害を出した私が、
自分を罰して傷を作っているのだから、
損害に見合った傷じゃないということなのかな。
まだ傷が足りないのかな。
それとも、
私の傷には価値がないってことなのかな。
それはないと思うんだよね。
血の通ってないお詫び文や、
心のこもっていない謝罪よりも、
傷を増やした方が、
反省もしているように見えるし、
痛みという罰も受けているし、
そのほうがいいと思うんだ。
私の傷は価値がある。
お金に換算すれば随分と価値が出るに違いない。
失敗するたびに、
お詫びの気持ちを込めて身体を切ってきた。
そのたびに痛んだ。
痛みは他人に伝わらないけれど、
痛そうだとは大体思うし、
目を背ける人もいた。
職業を転々として、
私はこれからを、ふと考える。
このまま傷を増やしていって死んだら。
私は何を残せるだろう。
傷は私だけのもの。
私の傷が、死んで価値があるか。
それを私は思う。
死んだら、金銭と違って傷には価値がない。
傷はこの世につけるものかもしれない。
生きた証として。
価値のあるなしは、後からついてくる。
傷をつける癖は直らないかもしれないけれど、
生きた証がほしい。
獣のような傷跡を、この世につけたい。