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第6話 痛み

 いつもの空、いつもの道、いつもの風景。

 なのに、不思議と全てが優しく見える。


 楓は深く深呼吸しながら、ゆっくりと辺りを見回した。


 色のない世界に、色があったことを思い出した。

 世界はこんなにも、鮮やかで温かい。

 ほんの少し余裕が生まれると、こんなにも世界が違って見える。


 今まで知らなかった。


 すべては彼のおかげ。

 藤原要。

 彼がいるから……。


 楓は前を向く。

 決意していた、亜澄と向き合うこと。


 きっと何かが変わる……心の片隅で小さく芽生えた感情。


 楓は握った拳に力を込めると、一歩踏み出した。





 玄関の扉の前で、楓は自分に言い聞かせる。


 大丈夫、きっとうまくいく。何かが変わる。

 それに、私には味方がいる。


 だから、頑張ろう。


 楓は思い切って玄関の扉を開けた。


「……ただいま」


 誰の返答も返ってこない。

 静まりかえる家は、とても不気味でいつも寒気がする。


 亜澄はいないのか、と辺りを探す。


 キッチンの入口から中を覗こうとした、そのとき、


「どいて」


 後ろから背中を強く押された楓は、前のめりに倒れそうになった。


 亜澄は楓のことなど見向きもせず、冷蔵庫を開け水をグビグビと飲む。

 すごく不機嫌そうな顔をしている。


「何!」


 亜澄が楓にえた。

 いつものことだが、今日は特にイライラしているようだ。


 楓の心臓がうるさくなり、身体が小さく震え出す。


「……何なのよ、さっきから私を変な目で見て。気持ち悪い。

 言いたいことがあるなら言いなっ」


 亜澄の冷たい瞳に見つめられ、体中の血の気が引いていく。


 嫌だ、逃げたい……。嫌、駄目だ、逃げちゃ駄目だ。


「母さん……私、私っ……」


 いざ言おうとすると言葉に詰まる。想いが声にならない。

 どう表現すればいい? どう言えば伝わる?


 楓が黙ってしまうと、亜澄はため息をついて楓に詰め寄ってくる。


「あんたさあ! 何なの? 私は疲れてるのよ。

 私の貴重な時間をいてあげてるのに、さっきからその態度! 何様?」


 亜澄の感情が高ぶっていくと同時に、楓の恐怖は増していく。


「……っごめんなさい、でも、私、母さんに伝えたいことがあって」

「だから何って聞いてあげてるでしょ!」


 亜澄の血走った目からは憎悪の感情しか読み取れない。

 楓は怖くて怖くて逃げ出したかった。


 体は小さく震え、心臓がバクバク音を立てる。


 体が言うことを聞かない、石になってしまったかのように動かない。


 (逃げたい逃げたい、助けて助けて、助けて、嫌嫌嫌、もう嫌っ!)


 すべてを投げ出してしまおうか、弱い自分が顔を出す。

 そのとき、要の顔が脳裏をよぎった。


 ……駄目、ここで逃げては駄目だ、逃げたら今までと変わらない。


 楓は張り裂けそうになる胸を押さえ、血が滲むほどきつく手を握りしめた。


「私……母さんに…………愛されたい」


 必死に絞り出した声は、物凄くか細い声だった。


 亜澄は物凄く意外だという顔をしたあと、不気味な笑い声をあげる。


「ふふふっ、何言ってんの? 愛してるわよ。いつも可愛がってるじゃない。

 あなたは美奈と違って手がかかるから、母さん大変なのよ。それでもきちんと楓のこと相手してるでしょ?」


 さも当然でしょ? と言わんばかりに亜澄は自慢げに語る。


「違う! 母さんは私を愛してなんかいない!

 すぐ怒鳴るし、殴るじゃない。私の気持ちなんて全然考えてくれてない!

 私を大切に思ったことなんてないでしょう? 美奈ちゃん、美奈ちゃんってそればっかり。

 私のことなんて、都合のいい道具としか見てない!」


 楓は今までの思いをすべてぶちまける。

 こんなに楓が反発するのは初めてだったので、亜澄は酷く驚いた。


「なんて子なの! 母さんにそんな口……」


 亜澄はしばらく開いた口が塞がらなかった。

 しかし、すぐに嫌味な笑みを浮かべる。


「ふーん、そう……そうよ。あんたなんて愛してない! これでいい?」


 楓の心臓はナイフでえぐられたような痛みに襲われた。


 その言葉を言って欲しくなかった。

 それは楓にとっての死の宣告のようなもの。


 この痛みはどうすれば伝わる?


「あんたが悪いのよ。あんたの方から言い出したんだから、私があんたを愛してないって。

 そりゃそうよね、実際愛してないんだもの。愛しいと、思えないの……」


 亜澄は楓のことを一瞥いちべつもせず、言い放つ。


「っなんで? ……なんでそんなに私のこと嫌いなの?」

「そんなのわからないわよ! ただ……あんた見てるとイライラするの」


 亜澄は居心地悪そうに爪を噛む。

 母の癖だ。見たくない現実から目を逸らすときにする動作。


 そんなに私のこと、見たくない? 無かったことにしたいの?


 楓は涙を流し、亜澄に尋ねる。


「母さん……私は母さんが大好きだよ。

 母さんは私が嫌い? ……いらないの?」


 楓は心の中で必死に祈った。


 どうか、どうか、あの言葉だけは言わないで。


「嫌いよ、いらないわ」


 冷たく低い声が、私の心を貫く。


 全て終わった気がした。

 今まで必死に築いて守ってきたものが、崩れ落ちていくような感覚。


「母さん、いやっ、私必要だよね? いてもいいよね? ……母さん!」


 泣きながら足にしがみ付いてくる楓を、亜澄は虫けらを見るように見下ろした。


「うざい。今日は疲れてるって言ったろ? ほんと、空気の読めない子」


 しがみ付いている足とは逆の足で楓を蹴り飛ばす。


 楓は痛みに耐えながら、必死で亜澄にしがみ続けた。


「もう! なんなの!」


 亜澄は楓を何度も蹴る。

 その強度は段々と強くなっていく。


 楓はだんだんしがみ付いていられなくなり、腕がゆるむ。

 その瞬間を亜澄は見逃さなかった。


 一番強烈な蹴りを楓に入れる。


 鈍い音がして、楓はとうとう床に落ちた。


 低く呻きながら、ゆっくりと起き上がろうとする楓。

 亜澄は容赦なくさらに蹴りを入れた。


「ふんっ、ちゃんといつも通りしときなさいよ。

 それと……二度と変なこと言わないで。

 今度私をイラつかせたら、こんなもんじゃ済まさないわよ」


 亜澄は楓を置いて、さっさとその場をあとにする。

 残された楓は蹴られた痛みでしばらく起き上がれずにいた。


 体は痛かった……でもそれ以上に、亜澄から言われた言葉が楓の頭を支配し、全てを奪っていく。


 感情や思考が停止してしまった人形のように、楓はただ虚空を見つめ続けていた。





 翌日、楓は学校へ現れなかった。


 要は心配で仕方なかったが、事情もわからないのでしばらく様子を見ることにした。

 また勝手に動いて、楓を困らせることはしたくはない。ここは我慢する。


 三日目、我慢の限界をむかえた要の足は、楓の家へと向かっていた。




 チャイムを鳴らすと、しばらくして亜澄が顔を出した。


「っ! あなたっ」


 あからさまに嫌そうな顔をされた要は平然と返す。


「楓さんがずっと休んでるんで心配で……います?」


 要が家の中を覗き込もうとすると、それを塞ぐように亜澄が要の前に立った。


「さあ……私は知らないわ。あの子が勝手に休んでるんじゃない?

 まあ、いたとしても会わせないけどね」


 一方的に言い放つと亜澄はドアを強く閉めた。


「あはは……だいぶ嫌われてんのね」


 さてどうしたものかと要が思案していると、


「あの……」


 後ろから声がしたので振り返る。

 そこには楓の妹の美奈が立っていた。


 美奈は何か言いたげに、まっすぐこちらを見つめている。


 要はすごく嫌な予感がした。


 美奈の口が開く。


「……お姉ちゃんを助けて」


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