「ルシアン、ここ見て」
人差し指でページの中央を示すと、ルシアンが身を寄せて本を覗き込んできた。
「ウェリン神殿? 聞いたことないな」
「ええ。それに、ここって元は神殿だったの?」
「さあ……」
宰相を父に持つルシアンも、このことは知らなかったらしい。
「続きがあるわ」
二人は無言で文章を読み進める。
【ウェリン神殿は、現在のファウエル大神殿の前身である】
ファウエル大神殿とは、王城近くに位置する国民なら誰もが知る王国最大の神殿の名前である。そこで執り行われる毎年一回の聖女降誕祭は、厳かな中にもどこか華やかな雰囲気が漂う。一般にも見学が許されていることから、国民にとって人気の催しの一つとなっている。
「確かファウエル大神殿の巫女だったのよね、魔王と戦った聖女様って」
「……昔からそれが当たり前だったから特に何も考えてこなかったけど、こうやって幼少期から国民は自然と聖女を崇めて……対になる魔王を貶めてきたんだな」
ルシアンがポツリと呟く。どこか気遣っているような彼の声色に、ジャスティーヌは思わず頬を緩めた。
「やっぱりルシアンは優しいのね」
「もし気分が悪くなったら、いつでも言ってくれ。少し休憩しよう」
「ありがとう。でも大丈夫。今の私は魔王じゃないもの。それはルシアンがよく分かってるでしょう?」
真顔で「ああ」とルシアンが頷いてくれたので、ジャスティーナは微笑んだ。自分が魔王の力を上手く抑えられているはルシアンの癒しの力のおかげだが、彼の内面に支えられているからこそ、自分は魔王に意識を明け渡すことなく人間でいられる。
「それにしてもここが神殿跡だったとは驚きね」
「それならジャスティーナの直感は正しかったということなのかな。さっき言ってたよね。森の中の大きな楕円形の石のある場所、そこの空気が澄んでいて神聖な感じがしたって」
「ええ。ここがかつての神殿だったと言われたら納得できるわ。もしかしたら旧学舎は、もとは神殿の一部だったのかもしれないわね。それであんなに老朽化していても取り壊されることなく、貴重な遺構としていまだに残されているんじゃないかしら」
ルシアンは何か言いたげに口を開きかけたが、言葉に出ることはなかった。
ジャスティーナは再び文章に視線を落とす。
【聖女は元来ウェリン神殿の巫女であった。ウェリン神殿は王都中心部へ移築され、国の権威をかけてより荘厳な姿へと生まれ変わった。そして、王国は偉大な聖女が仕えたこの地を聖地と定め、学生が未来永劫聖女の加護を賜れるよう、ダリウス魔法学院を設立することとした】
「あら?」
その文面にわずかな違和感を覚えた。
「ねえ、ルシアン。特に気にしなくてもいいのかもしれないけど、ここ、ちょっとおかしいと思わない?」
「え? ……元来ウェリン神殿の巫女だったってところ? まあ、偉大な聖女の功績を称えて国がより立派な神殿を立ててあげたとしても、不思議ではないけど」
「そこじゃないわ。功績の褒章が大神殿建立だったとしても、なぜこの地に立て直さないの?」
魔法学院は王都の郊外にあるとはいえ、王都の中心部からほど遠いというわけではない。現に、休日に生徒が日中王都へ遊びに出かけても、夕食の時刻には充分間に合うほどの距離だ。
「どこか遠くに地にあったのなら分かるけど。近いのにわざわざ移すということは、何か理由があるんじゃないかと思ったの」
「うーん……単に王族が通いやすいからって理由かもしれないよ。当時の王が、偉大な聖女をよりそばに置くことで治世が盤石になると考えても不思議じゃない。魔族が倒されたといっても、その直後の国民はまだ不安の中にいたはずだから」
「……そうかもしれないけど」
考え込むジャスティーナに、ルシアンはそっと声をかける。
「もしかして、君の頭に流れ込んできたっていう声のことが気になってる?」
「……ええ。とても悲しそうな声だったの。なんでこんな酷い仕打ちをするのかって。でもそれが何のことを指しているのか分からないし、誰の声かも分からない。当時、ここには聖女の他にも巫女や神官がいたでしょうし」
ジャスティーナは声を潜める。
「ルシアンの言う通り、当時の民は不安の中にいた。そんな時に大々的に神殿を移したりするかしら。しかもそれには多くの費用を投じることになる。そんな余裕があるのなら、そのお金を民のために使うべきだわ」
「言われてみれば、そうだな」
「仮説だけど、ここは王国にとって、あるいは王族にとって都合の悪い場所になったのかもしれないわ。だから神殿を移築して、この地を手放した。極端な言い方をすれば……見捨てたんじゃないかしら。私の頭に流れ込んできた悲しい声ごとね」
ルシアンが神妙な面持ちで言う。
「……君はここで何があったか、見当がついているのかい?」
「まさか。そこまでは分からないわ。だから調べようと思ったんだけど……」
ジャスティーナは両手を上げて背中を伸ばした。ずっと書物に集中していると身体が固まってくる。
「もし不都合な真実なら、どの文献にも載っていないかもしれないわね。でも時間をかけて調べていけば何か手掛かりでも──」
「ジャスティーナ……!」
突然ルシアンに肩を掴まれ、ジャスティーナは腕を下ろした。続けてルシアンに手を握られる。
「え、ルシアン、一体どうし──」
問いかけは途中で消えた。握られた手からじんわりと温かい気が体内に流れ込んでくる。
ルシアンが癒しの力を送り込んでいるのだ。
彼から魔鉱石を贈られて以降は途絶えていたので、久々の感覚にジャスティーナは戸惑う。
だが、彼がそうする理由はただ一つ。
「私、まさか……」
「ああ。髪の先が少し黒くなってる。瞳はまだ大丈夫だけど。しばらくこのままでいてくれ」
どうして、と疑問が生じたが、ここで慌てふためくと周囲から注目を浴びてしまう。背後が壁であることが何よりの救いだ。ルシアンの真剣な眼差しを前に、ジャスティーナは黙ってじっとしていることしか出来なかった。