誰かの足音が、床を打つ音と混ざって近づいてくる。だけど、カリアン殿下ののんびりとした声が、再び私の意識を曇らせた。
「……ああ、やりすぎたかな? どんどん魔力が増えてきている。これじゃ苦しいよね。どこまで増えるんだろう? 聖女がいないから加減がわからない! でもまあ、大丈夫だろう。君は強い子だしねクローディア」
ふざけてる。こんな時でも、ただ笑っている。
「黙れ。これ以上、彼女に近づくな」
低く、怒りを押し殺したルシウス様の声。冷たい鋼のようで、ぞくりとするほどの威圧感が滲んでいた。
「わあ、怖いなあ。君がそんな顔をするなんて。聖女の奉仕ってやっぱり凄いんだなあ。試したいなあ」
「クローディアを侮辱するな!」
「……でも、駄目駄目。君は感情をコントロールしないと。クローディア嬢は君の獣化の為に魔力を使わなきゃいけなくなっちゃう」
「……まさか」
「魔力が増えるということは暴走しやすいもんね。聖女の魔力は特別だといっただろう? そう……聖女の魔力は感情に働きかける」
「感情に……」
ルシウス様の手に力がこもる。
「ああ、そうだ。私もすごく楽しくなってきたし、君も獣の気持ちがどんどん膨らんでいるのではないかな。彼女の魔力に当てられて、クローディアを抱いたまま獣化するのを選ぶ? そうしたらクローディアも死んでしまうかもしれないね。魔力の暴走か、君の手か、どっちが早いのかな? そうしたら、君をすぐに討伐対象に指定しなくては! 楽しみだ。あははっ。いいよなあ、感情を操れるってどんな気分なのかな! 私がその力を持っていたら、君をすぐに獣化させるのに」
高らかに笑う声。
最悪の二者択一。
私の魔力がルシウス様を獣化させる。彼を、酷い目に合わせてしまう。
意識が遠のく。
それでも、私はルシウス様が死ぬかもしれない選択は絶対に嫌だった。何も言わなければ、彼はこれを選べない。
「……じゅう、か、しないで。おねがい、おねが、いだ、から」
「クローディア……クローディア!」
「君もそろそろ動けなそうだね、ルシウス。獣になっても、面白いしこのままクローディアを見捨てるのもいいな! ああ、面白い。本当に面白いよ。そろそろだなあ。どっちになるんだろう?」
ルシウス様は、黒に覆われてきている。今は精神力でもっているだけだ。
これ以上は、絶対に駄目だ。
ルシウス様が獣と思われるなんて、駄目だ。
獣人の姿でさえ、忌避されている。それが、獣化ではもう貴族としては生きていけない。
……それどころか、普通に生きていくことすら。
ルシウス様は、こんな時でも私を犠牲にすることを選ばないんだ。
彼は優しいから。
そして、その優しさを私は好きになった。
私を見捨てろなどということは、彼にとってきっと残酷すぎた。
これでは彼の父と変わらないと彼が感じるのは間違いない。残酷に迫る、罪悪感を抱かせる行動。
罪の意識を押し付け、彼を思い通りに変えた、ルシウス様の父親。
これを、彼に選ばせてはいけない。
ルシウス様には、選ばせない。
……だけど、私がいなければ、彼は。
ルシウス様は獣化をおさえているために動けない。
私は力を振り絞って、起き上がりそのままルシウス様から離れた。しかし、すぐに力強く捉えられ、浮遊感と耳元でカリアン殿下の声が響いた。
「捕まえたっ! あははっ」
……これが正解なのかはわからない。ただただ、最悪だ。
けれど、ルシウス様は私のこの行動の意味だけはきっと分かってくれる。
彼は、助かる。
まだ、最悪じゃない。……たぶん、そう、願って。
カリアン殿下の楽しそうな声と共に、私の意識は失われた。