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第12話

 座敷の中は水を打ったように静まり返った。


「橙子先生の腹には俺の子がいる、だから真昼とは別れる」

「た、龍彦!」


 そんな中、真昼さんは冷静だった。


「たっちゃん、それは離婚するための嘘、だよね」

「なに、嘘じゃねぇよ」


 真昼さんは座布団の下から透明ファイルを一枚取り出すと折り畳まれた厚手の紙を座敷テーブルの上に広げた。


「お義母さん、これが<不妊治療>の検査結果です」

「や、やっと届いたの」

「お見せしようかどうか悩みました」


 田村家の両親は老眼鏡を掛け、その検査結果を端から端まで目を通した。然し乍ら、その英数字の意味が分からず首を傾げていた。


「龍彦さんに子どもは出来ません」

「どういう事?」

「龍彦さんの精子の数は極端に少なくて動きも悪いそうです」

「それって」

「不妊の可能性が高いそうです。再検査に来るようにと書かれていました」

「そ、そうなのか!?」


 その場で一番驚いたのは田村龍彦本人だった。


「だから子どもが」

「だから私とたっちゃんに子どもが出来なかったの」

「そんな」

「残念ね」


 真昼さんの発した「残念ね」が気に障ったのか、田村龍彦は逆上して畳から立ち上がり私たちを見下ろした。


「おまえなんかとセックスしたって子どもは出来ねーよ!」

「どう言う意味よ!」

「濡れねぇしなんも言わねぇ!」

「や、やめてよ!」

「つまんねぇ女!」


「ーーーーあっ!」


 そう怒鳴り散らした田村龍彦は足を滑らせた。


「いっ、て」


 いや、私が田村龍彦の脚を蹴り上げ、その上半身が畳の上に音を立てて沈んだ、それが正しい。


「い、いって!お!い!」


 私は田村龍彦の腹に馬乗りになって襟元を掴み上げ無言でその片頬を拳骨で殴り続けた。頭に血が昇るのを感じ、拳に田村龍彦の頬骨がめり込んだ。それはとても痛んだが止められなかった。


「や、やめろ!久我!やめろ!」


 竹村さんが私の両脇を抱えて引き剥がそうとしたが微動だにしなかったという。


「ーーーーやめろ!」


 私の拳は田村龍彦を殴り続けた。





 背後に撫で付けた髪型は崩れ、スーツは皺だらけでネクタイも乱れていた。


「真昼、頼む」

「うん、わかった」


 気が付けば私は真昼さんの家に居た。リビングの床で胡座をかき、真っ赤に腫れた拳を保冷剤で冷やしていた。目の前には心配そうな顔があった。


「すみません」

「びっくりした」

「私も驚きました」


「痛くない?」

「痛いです」


 冷静になりこれで警察官としての人生は終わったと思った。明日からはビルの警備員か交通整理者か交通誘導員かと、退職願の三文字が脳裏を過ぎった。


「龍彦さんは」

「生きてるよ」

「傷害致死、殺人未遂、私、何か物は壊しましたか」

「大丈夫」

「器物損壊は免れましたね」

「そうね」

「懲戒処分です」


 すると真昼さんはいつもの悪戯めいた笑顔で私の顔を覗き込んだ。


「お父さんたち、田村のお義父さんにギャンギャン噛み付いてた」

「そうですか」

「結婚前からの不倫なんて有り得ないよね」

「その通りです」

「最悪よね」


「それでも暴力はいけません」

「でも嬉しかった。スカっとした」


 温くなった保冷剤が新しい物に取り替えられた。気持ちが良い。


(懲戒処分か、義姉は笑うだろうな)


「久我さん」

「はい」

「慰謝料請求額500万円、高いかな」

「一年間100万円と考えればそれも良いんじゃないでしょうか」


「でね」

「はい」


「慰謝料を350万円に減額したら、久我さんの事は忘れるって」

「出来るんですか」

「させるってお父さんが息巻いてた」

「そうですか」

「叔父さんが念書を書かせてたよ」

「仕事が早いですね」


 真昼さんは大きく背伸びをして微笑みながら振り返った。


「これで離婚成立、離婚届書いてくるからお留守番お願い」

「はい」


 私は真昼さんに150万円の借金が出来た。


(どうやって返済すれば良いのか、分割、ボーナス払い)


 数日後、真昼さんは竹村の家に帰る事になった。

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