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第16話

 その後、私の部屋はリビング隣の座敷があてがわれた。当初、竹村さんは「真昼の部屋で良いじゃねぇか」とぶっきらぼうに言ったが、そこはやはり真昼さんの幸せを願う反面、自分の手元から離れる寂しさもあるのだろう微妙な顔付きをしていた。


(大切なお嬢さまですから)


 その提案は丁重にお断りし、座敷で実家から届いた宅配便の荷を解いた。


「久我さんはミニマリストなのね」

「あまり物には執着しませんから」

「私には五年間も執着したのにね」

「ーーーーーーーー!」


 そう言って私の唇を軽く啄む真昼さんは悪魔だ。


(いやいやいやいや、私は仏ではありませんからーーーー!)


 この親子はなにかにつけ既成事実を作りたがっているとしか思えなかった。そちらがその気ならば、私は断固として婚礼の日まで性行為に走るまいと意固地になった。


 11月28日は真昼さんの誕生日。三人で焼肉でも食べに行こうと話していたのだが勤務中に竹村さんの話し声が聞こえて来た。相手は木暮警部だった。


「おい、今夜俺に宿直責任、替わってくれんか?」

「このまえ勤務だったろう?」

「いや娘の誕生日祝いでな」

「あぁ真昼ちゃんか」

「おう」

「ならケーキ買って帰れよ」

「まぁ良いから。替わってくれ、頼む」

「変な奴だな無理は禁物だぞ」

「助かる」


 そして社員食堂で日替わり定食に箸を付けたところで竹村さんに声を掛けられた。


「悪ぃ、今晩宿直だった」

「は?」

「ロウソクは28本だぞ、パイ生地のケーキは鬼門だからな」

「はぁ」


「真昼と黄色いアヒルでも浮かべて楽しんでくれ」

「アヒル、ですか」

「風呂場にあるだろう」


 私はイチゴのショートケーキと11月28日の誕生花”オンジューム”を花束にして玄関先で首を傾げた。


(黄色いアヒル、浮かべる?)


「ただいま帰りました」

「おかえりなさーーい」

「ケーキです」

「ケーキ」

「はい」


 真昼さんはケーキの白い箱を開けて安堵の表情を浮かべた。なんでも前夫の龍彦とパイ生地のケーキで一悶着があったらしい。「大好物だったけど、もう二度と食べないの!」鬼の形相だった。


「真昼さん、黄色いアヒルって使っているんですか」

「あぁ、あれ。可愛いでしょ」

「はい」

「お風呂に入る時浮かべているの」


 竹村さんのとは一緒に風呂に入れという意味だったのか、それはあまりにハードルが高いだろう。


「アヒルがどうしたの?」

「い、いえ。なんでもありません」


(竹村さんがあんな事を言うからだ)


 私は布団の中で久しぶりに我が息子を慈しんだ。


(あまり眠れなかった)


 我が息子が暴れん坊で一苦労した。真昼さんに見付からないように隠れてトイレに流した。さらば、いつかおまえたちの兄弟が役立つ日が来る筈だ。


(ーーーーーふぅ)


 目の窪み、如何にもという雰囲気で車を降りるとブラック無糖の缶コーヒーの湯気を啜りながら竹村さんが顔を出した。それは丁度居合わせたというよりも私の出勤を待ち構えていたようだった。


「よう、おはようさん」


 スッと手を上げたいつもと変わらぬ朝の挨拶だが何処となくぎこちない。


「おはようございます」


 私は風呂場に並んだアヒルと真昼さんと我が息子たちを思い出し目が泳いだ。竹村さんは事情聴取で犯人のちょっとした表情の変化を見逃さない、そんな面持ちで私を睨み付けた。


「で、どうだった」

「どうとは」


 私が職員用ドアのノブを回して開けると先に入った竹村さんが至極真剣な眼差しで振り向き、私の皺がよりがちな眉間をじっと見つめた。


「真昼の趣味なんだが黄色いアヒルはどうも落ち着かん」

「そうですか」

「アヒルは何匹浮かんだんだ」

「はい?」


 カァカァとカラスが弧を描き、電信柱の天辺にとまると何処か遠くの仲間を呼び始めた。同僚たちが続々と出勤し、駐車場からバタンバタンと車のドアを閉める音が響いた。



ふ、ふあぁぁぁぁぁ



 私は竹村さんを吸い込んでしまいそうな程に大きなあくびをした。


「あ、失礼しました」

「どうだ、アヒルは風呂から飛び出したか」

「飛び出しませんでしたが」

「チッ」


「で、どうだった」

「どうとは」

「おまえ、寝不足だろう」

「はぁ、まぁ」


 早番の警察官がコンビニエンスストアの白い袋をぶら下げて通り過ぎた。


「おはよーーっす」

「おはようございます」


 夜勤の警察官が軽く会釈をして通り過ぎた。


「おはようございます、お疲れさまでした」

「ほい、お疲れさん」

「お疲れさまでした」


「で、どうだった」

「どうとは」

「いや、なんでもない」

「はぁ」


 自動販売機の前で竹村さんがスーツのポケットを弄り小銭を探しだした。私が小銭入れを取り出すと「いや、良い」と手を振った。


ぴーーーーガタン


「久我、褒美だ、取っとけ」

「ありがとうございます」

(頑張った?褒美?)


 私の手には汗をかいた無糖の缶コーヒーが握らされた。竹村さんはいつにも増して力強く私の背中を叩いた。


(これは、かなり、痛い)


 昼休みに確認すると真っ赤に腫れていた。


「で、本当はどうなんだ?」

「はい?」

「アヒルはどうだった?」

「アヒル、ですか?」


 一階フロアのカウンターが忙しなく動き出した。


「で、どうだった?」


 竹村さんは腰の痛みを庇うようにゆっくりと手摺りに掴まって階段を上って行った。そして急に私に振り向く。


「で、どうだった?」


 私はこの日、竹村さんの呪文の言葉を何十回も耳にする事となった。


「で、どうだった?」

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