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怪我 8

 御岳にとっては入門したての頃に聞いていたことだが、他の内弟子には初めての話だ。だから、整理して話すと言っても、順序立てて話していかないと理解しにくいはずだ。

 伊達は、空手道の生まれから話すことにした。

 現在、空手道発生について3つの説があるという。

 そのうちの一つである完全に沖縄固有のものである、という説は現在では支持されておらず、中国拳法が沖縄で変化したもの、あるいは中国拳法と在来の沖縄の格闘技「手」との融合によってできたもの、という2説が有力、というところから始まった。

 その背景には沖縄の特殊な歴史があり、その時代の沖縄の人々の話なども出てきた。

 例えば、沖縄は中国と薩摩藩(現在の鹿児島県)からの二重支配を受けていたことや、禁武政策のために武器が取り上げられた話、空手道の理想とも言うべき「一撃必殺」の思想は、薩摩藩の剣術流儀である示現流の「初太刀必倒」に影響を受けているという説があるなど、みんなに興味あることばかりだった。

 示現流については、幕末の頃の新撰組との関わりにも話が飛び、こういう話には龍田も興味を持った。特に、隊員に「薩摩の初太刀は必ず外せ」という達しが出ていたエピソードなどは、大いに盛り上がった。

 また、中国拳法の渡来についても、久米36姓の話や、「大島筆記」に記載されているエピソードなど、聞いたこともない話が盛りだくさんだった。

 これらの話は御岳にも話していなかった。初めて話す内容を盛り込むことで、先ほどの御岳のおぼつかない説明しかできなかった理由を、まだ話していないことがあったためだということにしたかったのだ。

 空手道史の講義と思っていた内弟子は、話の広がりでさらに興味を持ち始めた。それは伊達の狙いの一つであり、武道を単なる戦いだけの技術といった捉え方をしてほしくない、という気持ちがあった。

 話はさらに続き、沖縄で育った空手道が日本本土に渡来した時から、現在に至るまでの流れの講義に入った。

 その辺りから高山や龍田といった空手道の経験者は、ますます興味を持ち始めた。前の流派を離れたとはいっても、かつて所属していたところだ。興味が湧いて当然で、伊達もそれを配慮してそれぞれの流儀の良い部分を強調して説明した。

 高山も龍田も以前稽古していた道場では、自分の流派の歴史など聞いたことがない。ただ、技術のみを稽古していた。

 この状況はほとんどのところがそうなのだが、日本の武道の中でもっとも広がっている空手道の本場の日本人が、自分のところの文化を知らないというのは、とても恥ずかしいことだ。伊達にはそういう考えが昔からあり、内弟子には恥ずかしい思いをさせたくない、という気持ちがあったのだ。

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