黒田は動揺した。まさか大塚がこんなにあっけなく負けるとは、思いも寄らなかったのだ。それは黒田だけでなく、北島、榊、郷田も同じだ。表情の強ばりがそれを表している。
大塚は黒田たちのほうに運ばれ、北島が付き添う感じになっている。心配そうな感じで声をかけるが、大塚は終始無言だ。痛くてしゃべることができない、というわけではないが、あっという間にKOされたことが今でも信じられない、といった様子だ。
黒田としては、ここで引き下がってはやってきた意味がない。他の2人が勝てば、2勝1敗で勝ち越しになる。黒田は次に出る大木に期待をかけた。
「大木さん。今度はガツンとやってください。大木さんのフットワークには、誰もついてこれませんよ」
少々悲壮感を含んだ感じで黒田が言った。たぶん大木なら大丈夫だろうという思いと共に、先ほどの鮮やかなKO劇が頭の中で交錯し、心配の割合が大きくなっていたのだ。
「任せておけ」
大木はボクサーが試合前によく行なっている身体ならしの軽いステップを踏みながら答えた。そこには自分は大塚のようなことはないぞ、という気持ちが溢れている。それは自身を励ます意味もある。大木としては、大塚の実力を知っているつもりだし、もし掴まれたら自分も倒されてしまう可能性が高いことを理解していた。それが相手に触れもしないうちにKOされたことに、心の底では動揺があったのだ。
たしかに、柔道はまず相手を掴まなければならず、攻撃までに一手間よけいにかかる。空手道の場合、拳足を当てることで攻撃が完了するので、拍子としては得をする。あくまで理屈の上での話だが、それが堀田・大塚戦で図らずも現実化したのを見て、俺は違うぞというところを見せつつ、自分にも言い聞かせている。
つまり、ボクシングは空手道と同じで、拳を当てればKOできる。その意味では同じ土俵に立つことになる。大塚のように何もしないうちに倒される、ということはないと榊は考えたいのだ。
また、スパーリングとはいえ、全日本チャンピオンをKOしている。だからこんな連中に遅れを取るようなことはない、と気持ちを変えた。対戦相手の高山を睨み付け、戦う前から威嚇している。
「大木君、防具は?」
伊達が尋ねた。
大木は右手を横に振り、防具の着用を拒否するしぐさを見せた。想定通りではあったが、稽古という建前上、一応尋ねなければならない。大木は上半身裸でトランクスといった、ボクシングのスタイルで行なうという。よけいなものを着けると動きが鈍るし、しっかりトレーニングをしているのだ打たれても大丈夫という自負からだ。だから高山も同じく防具を着けずに行なうことにした。はっきり白黒をつけるためには、あとで相手から言い訳されるような状況を作らないことが大切だからだ。
大木は試合で用いるグローブを着けた。近代ボクシングの場合、グローブは防具的な効用もあるが、逆に使い方を熟知すれば素手よりも防御力、攻撃力がアップする。大木も元プロである以上、そういう使い方は知っているし、ここでもそのためにグローブを用いることにしたのだ。
高山も相手がグローブを用いるならこちらもということで、指先が出せるグローブを着用した。
両者それぞれの出で立ちで、先ほどと同様、道場の真中で向かい合っている。
「始め!」
開始の合図が道場に響いた。