僕にとって必要なのは、大気と水と重力と、愛しい彼女だけ。
△ △ △ △
世界の人口は80億人を突破し、90億人を突破する日も近い。
とある機関の統計では、世界の人口は、1分間に約130人、1日でおよそ20万人。この規模で、日々増加しているという。
僕の予想では、もっと、もっと、増えていくだろう。
17歳、自己中心的な僕の気持ちとしては―― いやだな。
「オスが増えすぎる」
もし、この地球上に僕と彼女だけしか存在しなかったら……
究極に愚かで最上の仮定をしてみた。
「僕とミナミだけの世界。それは、地上の楽園だ」
僕は、
問題の多い男子高校生だと、自覚している。
僕の言動に対して、凡庸な科学者たち。只の偉そうな者たち。電気分解どころか因数分解を忘れたような大人たちに、
「このまま成長していけば、いずれ危険人物になるのではないか」
そう口にされていることは、承知している。
もっと詳しくいえば、僕という生体の人間性は最悪だ。
傲慢で、不遜で、偏屈。
辛辣で、冷淡で、毒舌。
第3者の評価は、おおむね正解。間違ってはいない。
ただし――
「彼はもうすでに、我々を見下している。自分の力を過信し、いつか暴走するだろう。他国の甘言にのせられ、利用される可能性もある。いっそ、国の監視下におくべきだ。憂慮される事態が生じたとき、いったい誰が、彼を止められるんだ。暴走した彼には、我々の声は届かないだろう」
それは、間違っている。
僕は、最初からアンタたちを見下していた。
僕は、凡庸な科学者ではないし、偉そうではあるが、自分の力量を見誤るほど馬鹿ではない。
それに、耳は良い方だ。とくに彼女の声は、とても良くきこえる。
たとえばそれが、激しいノイズ音が交錯する工事現場であっても、ガヤガヤと静まることをしらない休み時間の教室であっても。
窓際――前から4番目の席に座る彼女が振り返って、
「アルキメデス、さっきからわたしの髪の毛を指でクルクルしているけれど、それ禁止」
すぐ後ろの席、5番目に座る僕に、ひとこと、そう云ったなら、
「うん。放課後にする」
僕はすぐに止まれるから。
僕を止められる唯一の人。
彼女の名前は、
僕は14歳のとき、陸上部のハイジャンパーだった彼女を好きになった。出会って5秒。空を見上げ、雲の動きを目で追う彼女にひとめぼれした。
その日は、地区の陸上競技大会で、風が強い日だった。規則性なく吹き荒れる風に、多くの選手が翻弄され、記録を伸ばせないでいた。
そのとき、彼女だけはじっと空を見上げ、流れる雲から風の方向を予測していた。
その日、唯一、風をよみ切った彼女にだけ吹いた追い風。
偶然ではないその風を最大限利用して、助走から得た加速度で踏切り、完璧な空中姿勢で、バーを越えていった。
ニュートンの美しい運動方程式を、彼女は体現していた。
僕の目には、それが、とてつもなく美しく尊く映った。
それから1年半後、アメリカの大学からの誘いを断り、僕は彼女と同じ高校に進学した。
17歳の春、彼女とクラスメイトになって、そして、告白。その場で失恋。
打ちひしがれた僕に同情してくれた彼女から、慈悲の「ともだち枠」を施してもらい、その夏いろいろあって、問題の多い僕は「彼女の彼氏」になった。
これは、県内偏差値ワースト5の私立修英館高校に通う、数学、物理の鬼才と呼ばれて久しい僕と一般常識と柔軟性と多様性を兼ね備えた彼女のラブストーリー。
アルキメデスの告白
~ とある男子高校生のエゴイズム ~
夏休みが間近にせまった、午後の教室。
「ねえ、アルキメデス」
前の席から、彼女が振り返った。
「なに、東山さん」
理数系が突出して得意な僕を、彼女は「アルキメデス」と呼ぶ。
大昔の科学者の名前で呼ばれるのは、少し気恥ずかしいけれど、彼女が呼びやすいなら、それでいい。
「今日、部活が終わったあとで、ピザ食べに行かない?」
彼女が手にしているのは、近頃オープンしたピザ屋の優待券だった。
「兄貴の友だちがバイトしているらしくて、今日までMサイズが無料なの。どう?」
もちろん行く。僕が彼女の誘いを断るときは、親が死んだときだけ。
「いいよ」
「よかった。アルキメデスは、ピザは好き?」
「うん、好きだよ」
ピザなんかより、もっと好きなのはキミだけど。
僕を「アルキメデス」と呼んでいいのも、「キミだけ」だけど。
放課後。
今日は軽めの調整なのだと言って、部活に向かった彼女を待つ間、アメリカの大学から送られてきていた課題をこなす。
「おまたせ」
「おつかれさま」
陸上部の練習を終えた彼女を校門で待ち、手をつないで歩く。僕の至福のとき。
「夏休み、もうすぐだね。そういえば、アルキメデスがイタリアに行くのって、来週からだった?」
「うん」
「ご両親と久しぶりに会えるね。何年ぶりくらいに会うの?」
「2年と46日ぶりかな」
「へえ。楽しみだね」
「……うん」
これは限りなく嘘に近い、絶望的な「うん」だ。できれば僕は、行きたくない。彼女と付き合いはじめた最初の夏を、いっしょに過ごしたかった。
しかし――ここ数年、イタリアを拠点に仕事をしている両親から、
『お母さんとお父さんは、涼ちゃんに会えなくて寂しいです』
要約するとそんな内容の手紙が、長々と便箋3枚にぎっしりと書かれ、航空券といっしょにエアメールで送られてきた。
僕からしてみれば、両親は非常にアナログな人間だと思う。航空券などインターネットで予約できるし、チケットレスだろう、と思う。
手紙なんかよりもメールの方がずっと速くて便利なのに、いつまでたっても利用しようとしない。
そのエアメールと航空券を、僕の家に遊びに来てくれていた彼女に見つかったのは数日前。
「あれ、アルキメデス。夏休みにイタリアに行くの? そうかあ、それじゃあ残念だけど、花火大会は来年だね」
この夏、僕の最優先事項だった花火大会デートは、あえなく来年にもちこしになった。
ちなみに、イタリア行きを中止しようとする僕を、彼女は許さなかった。
「ダメだよ。ご両親だって会いたがってるのに。花火大会は来年も再来年もあるんだから、楽しみは来年以降にとっておこうよ。それとも、今年じゃないと、わたしと花火大会には行ってくれないってこと?」
「そんなことはゼッタイにないよ! 僕はこれから一生、嵐が来ても
僕の返事に、彼女は満足気に頷いた。
「夏に嵐はくるかもしれないけど、雹はめったに降らないと思うよ。でも良かった。それじゃあ、来年こそは花火大会に行こうね」
「……うん」
僕は泣く泣く、イタリア行きを決めた。